2006年、林業で生活していくために、森林組合から独立する形でスタートした東京チェンソーズ。メンバーは男性4人、当時の平均年齢は30歳。若い力を活かし、彼らはがむしゃらに走り続けた。しかしその4年後、青木氏は会社のあり方を大きく変える決断をする。第2回では林業の仕事内容や業界の独特な構造に触れるとともに、産業が長らく抱えてきた課題に挑む青木氏の決意に迫る。

「第1回:若者だけの林業会社が、東京に生まれた理由」はこちら >

林業の仕事は30年単位

若者4人でスタートした東京チェンソーズ。やりがいだけでなく、安定した生活ができる林業、つまり「稼げる林業」こそが、青木氏らが描いた理想の姿だ。

「そのためにわたしたちは、創業当初から月給制にして、社会保険制度も設けました。そうすると、月にいくら資金が必要で、月に何ヘクタール分の仕事をすればよいか、明確にわかります。目標額をクリアするために、多少の雨でも現場に出ましたし、夏場は日が長いので長時間作業することもありました」

独立したての彼らは、どうやって仕事を受注し、稼いでいったのだろうか。

「森林組合から下請けの仕事をいただいていました。当時の檜原村は植林して30年~40年目のスギやヒノキが多く、ちょうど間伐をする時期でしたから、そのための人手が必要だったんです」

画像: 林業の業務サイクル。数字は年数。伐採できるまで30年以上を要する。

林業の業務サイクル。数字は年数。伐採できるまで30年以上を要する。

樹齢によって、林業は作業内容が変わる。その業務サイクルは「少なくとも30年」と青木氏は言う。まず1年目には、地拵え(じごしらえ)といって、もともとあった木々の伐採跡を片付けてから、苗木を1本1本植えていく。そこから7年目までは下草刈り。植えた木の周りにはどんどん草が生えてくるため、そのままにしておくと木が草に養分を奪われて枯れてしまうからだ。8年目からは枝打ち。これも、放っておくと枝が養分を奪って、幹が細くなってしまう。

「根元から上まで同じ太さでまっすぐに育った状態を“通直完満(つうちょくかんまん)”と言って、製材した時に無駄なく柱や板が取れるんです。そういう木に育てるために、1本1本に登って枝を落としていくので、とても手間がかかります」

画像: 林業の仕事は30年単位

25年目から30年目くらいにかけては、間伐。育ちの悪い木や、混み過ぎている箇所の木を間引く作業だ。そして伐採の時期になると、まず重機を使って作業道を作ってから、木を伐採して搬出する。スギの伐採は、植林から60年目くらいが頃合いと言われる。

画像: 伐採した丸太を搬出するための、作業道を作っている様子

伐採した丸太を搬出するための、作業道を作っている様子

「独立して最初の頃は、一年中間伐ばかりしていました。それをいかに早く、丁寧に、そしてきれいに仕上げていくか。それしか考えていませんでした。わたしたちが急ピッチで仕上げるので、一つの現場が終わるとすぐ次の現場の間伐業務を森林組合がまわしてくださっていました」

ところで、元請けの森林組合はいったいだれから受注していたのだろうか。

「発注元の大半は東京都や檜原村です。つまり、公共事業として山林の整備を発注しているということです。これがちょっと複雑なしくみなんですよ」

東京都は、長年手入れがされず荒廃してしまった多摩地方の人工林を再生させるため、2002年から個人の山主との協定を結んでいる。その内容は“25年間、環境保全のために東京都が山主に代わって山を手入れするので、その間は伐採してはいけない”というもの。山は個人の資産であると同時に、公益的な機能も持っているため、公金によってそれを維持するべきという考え方がその大前提だ。この森林再生事業の予算を、東京都が檜原村などの各市町村に振り分ける。そして、市町村が森林組合に山林整備業務を発注するという流れだ。

一方で、2006年から始まった花粉症対策事業としての山林整備もあり、こちらは東京都が発注元となる。花粉を出すスギやヒノキを伐採し、品種改良をして花粉を少なくしたスギ、ヒノキや広葉樹などに植え替えようという政策だ。

東京チェンソーズはこういった公共事業の下請け仕事を、創業から安定して受注し続けた。2007年には村内に古民家を借り、待望の事務所が誕生。2010年には3人の新たなメンバーが加わった。

画像: 檜原村の山奥にある東京チェンソーズの事務所。築400年の古民家を借りている。

檜原村の山奥にある東京チェンソーズの事務所。築400年の古民家を借りている。

創業4年で見えてきた限界と次のステップ

「元請けにチャレンジしようよ」

青木氏が仲間にこう切り出したのは、創業から4年が経ったある日のことだった。

「それまでは100%森林組合からの下請け仕事でした。どんどん受注して、体にムチ打って頑張ってきた結果、最初こそ売上がどんどん伸びていったのですが、売上を伸ばすにも限界があると気付いたんです。やはりこういった現場仕事は体が資本です。年をとっても同じペースで働くとなると、労災のリスクも高まってしまう。現場仕事は日中しかできないですから、仕事量を増やすのは不可能でした。それでも生活はできていましたが、元請けになれば、同じ仕事をするにしても収益が大きくなる。もっとゆとりを持って働き続けることができると考えました」

もうひとつ、青木氏が元請けに転じようとした理由があった。

「もっと顔の見える仕事がしたいと思ったからです。森林組合の下請けの仕事ばかりですと、組合の担当者の方としか話をする機会がないんです。例えば、わたしたちが間伐をして、一つの山がきれいになった。でもそれを山主さんが見ることはないし、場合によっては組合の方も見ないで電話口で“わかりました、じゃあ次の現場お願いします”といった感じで、流れ作業になってしまうことが多かった。そうなると、せっかく山がきれいになってもわたしたちの自己満足で終わってしまう。この仕事でだれかが喜んでくれる、といった手応えを感じられていませんでした。

でも元請けになれば、発注元の方と直接話をすることで、その意向を理解した上で山林の整備に取り組めますし、“山がきれいになったね”といったリアクションがいただけるかもしれない。そういった仕事がしたいという思いもありました」

画像: 東京チェンソーズの事務所内

東京チェンソーズの事務所内

青木氏が次にめざすべき東京チェンソーズの姿として掲げた、“稼げる林業”と“顔の見える林業”。しかし、創業メンバー4人のうち2人は、たとえ下請けであってもこれまでと変わらない働き方を望み、最終的に東京チェンソーズから独立する道を選んだ。

元請けに切り替えるということは、それまで下請け仕事を振ってくれていた森林組合と同じ土俵に立つということだ。当時、公共事業としての林業の受け皿は森林組合だけだった。行政側からすると、森林組合が仕事を受注してくれないことには林業政策が進まない。

「ずっとそうした状況が続いてきたところに、ひょっこり新しい林業会社が現れた。それがすごく新鮮に映ったようで、都庁に挨拶に行ったら各関係部署の皆さんに歓迎されました。“若い人たちを応援しなきゃ”って」

こうして、青木氏らは元請けとしてのキャリアをスタートした。まずは小規模な現場の案件を請け負うことで、少しずつ実績を積み重ねていった。

林業が補助金に頼らざるを得なかったわけ

元請け体制に舵をきった翌年の2011年2月、東京チェンソーズは法人化し「株式会社東京チェンソーズ」となった。現在、青木氏を含めて正社員は9名、平均年齢は33歳。そもそも元請けに挑戦した一つの理由は、売上をもっと伸ばすことだった。社員が増えた今、着々と公共事業案件を請け負うことで、それは達成できているのだろうか。

「直近の売上は6,400万円。2010年のほぼ2倍になりました。その約80%が東京都や檜原村からの元請けです。しかし、この状態は決して理想形ではないんです。公共事業案件でしっかりと経営の基盤を立てながら、そこで得た収益を使い、自分たちが理想とする新しい林業の形を模索していく。それが今の段階です」

青木氏が、理想とする林業。それは、東京チェンソーズの企業理念にも現れている。

東京の木の下で
地球の幸せのために
山のいまを伝え
美しい森林を育み、活かし、届けます。

「やはり自分たちは現場中心の会社として立ち上がったので、林業のプロとして“美しい森林を育み”、それを活かして人々に届けることで、地球の幸せの一助となるような事業をやっていきたい。それは、公共事業を請け負っているだけでは実現できません。そこで3年前に、事務所近くの山林を10ヘクタール購入して社有林とし、自前で木材生産を始めました」

画像: 社有林の伐採の様子。木を山側に倒すため、上部からワイヤーで引っ張った状態で伐採する。

社有林の伐採の様子。木を山側に倒すため、上部からワイヤーで引っ張った状態で伐採する。

しかし、林業が置かれている現状は厳しい。伐採した丸太を原木(げんぼく)市場に出したとしても、収益にはなかなか結びつかないからだ。第1回でも触れたように、国産材の相場があまりにも下落したため、林業は国からの補助金なしでは成り立たない産業となっていた。その状況を変えるため、創業当初の青木氏らは「補助金に頼らない林業」の実現も目標に掲げていた。

「今は公共事業案件を請け負うと補助金が出るのですが、もし、国の方針が変わって補助金がもらえなくなったら会社は成り立たない。それでは、稼げる林業を実現できなくなってしまいます」

それを裏付ける具体的な試算が青木氏にはある。1ヘクタール(100m×100m)の土地でスギを60年かけて育てた場合にかかるコストと国からの補助金、そして丸太の売上額を算出したものだ。1年目の地拵え、苗木から下草刈り、枝打ち、25年目からの間伐、そして60年目の伐採、搬出といった作業にかかるコストはトータルで約1,540万円。その間、国からの補助金は約490万円。丸太の市場価格が1㎥1.5万円、最終的に伐採した材積(木材の体積)が400㎥として、途中の間伐材も含めると売上は670万円となる。

整理すると、[補助金490万円]+[丸太売上670万円]-[コスト1,540万円]=[-380万円]で、400万円近くの赤字だ。明らかに丸太の単価がネックとなっている。だからと言って、現状で1万円程度の丸太を数万円値上げして市場に出してみたところで、買い取ってもらえるはずがない。

「そこでわたしたちがとった戦略は、ただ伐採して丸太を売るのではなく、木そのものに付加価値を持たせ、しかも市場を通さずに売ることです」

画像: 伐採時に最も気をつかうのが、木を倒す方向。これを誤ると大事故につながってしまう、非常にリスクの高い作業だ。「林業の現場仕事に向いているのは、適度に慎重な人」と青木氏は語る。

伐採時に最も気をつかうのが、木を倒す方向。これを誤ると大事故につながってしまう、非常にリスクの高い作業だ。「林業の現場仕事に向いているのは、適度に慎重な人」と青木氏は語る。

丸太1本分の価値の上げ方

「伐採するにも旬があるんですよ。木は、一年中生長し続けているわけではありません。春になると水を吸い上げ、夏には新しい葉っぱを繁らせる。そして秋から冬の間は休んでいる。つまり、水を吸い上げなくなるので、木が乾いている状態なんです。そこが伐採の旬です。一番よいのは、秋の彼岸から年末までの時期。弊社では、その時期に集中して伐採することにしました」

さらに青木氏は、伐採後の丸太の乾燥法にもこだわった。通常、市場で製材業者に買い取られた丸太は、製材されて乾燥炉という設備に入れられる。その中で蒸し上げられることによって1週間程度で乾き、製品となる。人工乾燥と呼ばれる手法で、反りや曲がり、ねじれといった狂いが少ないため、建築に活用しやすい。ただ、そこには問題もあった。むりやり熱を加えることにより、木の脂分が沸騰して抜けてしまう。すると、木が本来持っていた色つや、香りが失われ、狂いは無くてもスカスカな状態の木材になってしまう。そこで青木氏は、敢えて手間のかかる手法を選んだ。それが「葉枯らし」と呼ばれる天然乾燥法だ。

「伐採の時に、木を山側に倒します。すると、人間と同じように、木も葉っぱで呼吸をします。呼吸をすると水分が不足するから、根っこから水分を吸い上げようとする。でも、すでに根元を伐られているので、今度は体内に貯めていた水分を吸い上げる。そうやって水分をどんどん吸い上げさせることで、2~3カ月かけて木を乾燥させていく。それが葉枯らしです」

画像1: 丸太1本分の価値の上げ方

「この木は10月の半ばに伐ったものですから、もう3カ月近く経つんですけれども、上の方はまだ葉っぱが緑でしょう? 自分が伐られてしまったことにまだ気付いていないんです。そうやって葉枯らしが終わると、次は製材所に持って行って製材してもらい、さらに数カ月~半年近く寝かして乾燥させます。最初の2カ月くらいは屋外で雨風にさらされることにより、濡れて乾いてを繰り返して徐々に乾燥していきます。木造の家は、雨が降れば屋根があっても濡れますよね。この段階から、木をその状況に慣らしておくわけです。そして最後は、屋内で1カ月くらいかけてしっかりと乾燥させていきます」

画像2: 丸太1本分の価値の上げ方

旬の時期に伐採し、少なくとも半年以上かけて丁寧に乾燥させたスギは、色つやがよく、スギ本来の豊かな香りを持つ。こうして高品質に仕上げた木材を、青木氏はどう売っていくのか。そして、実際にいくらで売れるのだろうか。

画像: 青木亮輔(あおきりょうすけ) 1976年、大阪市生まれ。中学・高校時代を千葉県船橋市で送る。1999年、東京農業大学農学部林学科卒業。学生時代は探検部の活動に打ち込み、卒業後も海外遠征に参加するため研究生として1年間籍を置いた。出版社勤務を経て、2001年、東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)の森林組合に半年間限定で採用される。2002年からは同組合の正式な作業員として森林整備に従事。2006年、森林組合で出会った3名の仲間とともに林業事業体「東京チェンソーズ」を設立。2011年に法人化し、株式会社東京チェンソーズ代表取締役に就任する。著書に『今日も森にいます。東京チェンソーズ』(徳間書店取材班との共著,2011年)。檜原村在住。

青木亮輔(あおきりょうすけ)
1976年、大阪市生まれ。中学・高校時代を千葉県船橋市で送る。1999年、東京農業大学農学部林学科卒業。学生時代は探検部の活動に打ち込み、卒業後も海外遠征に参加するため研究生として1年間籍を置いた。出版社勤務を経て、2001年、東京都西多摩郡檜原村(ひのはらむら)の森林組合に半年間限定で採用される。2002年からは同組合の正式な作業員として森林整備に従事。2006年、森林組合で出会った3名の仲間とともに林業事業体「東京チェンソーズ」を設立。2011年に法人化し、株式会社東京チェンソーズ代表取締役に就任する。著書に『今日も森にいます。東京チェンソーズ』(徳間書店取材班との共著,2011年)。檜原村在住。

「第3回:30年先まで顔の見える林業を。」に続く >

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