画像: 日本柔道オリンピック
金メダリスト列伝【第3回】

1984年ロサンゼルス五輪無差別
金メダリスト
山下 泰裕

柔道が初めてオリンピックの正式競技となった1964年東京大会から昨年のリオ五輪まで、“柔道王国”日本は史上最多のメダルを獲得してきた。そして、その長い歴史の中で燦然と輝くのは卓越した技量で他を圧倒し、表彰台の頂点を極めた金メダリストたちだ。ここでは、54年前の各階級のレジェンドから直近の大野将平、ベイカー茉秋、田知本遥まで、『日本柔道オリンピック金メダリスト列伝』として1人ずつ紹介。今回は、84年ロサンゼルス大会無差別・山下泰裕選手をクローズアップする。(※文中敬称略)

モスクワ五輪ボイコットから4年――。
多くの感動を呼んだ金メダル獲得

“山下泰裕と五輪”といえば、右足ふくらはぎに重傷を負いながらラシュワン(エジプト)を破って悲願の金メダルを獲得した涙のシーンを、多くの国民は覚えているだろう。

 84年、ロサンゼルス五輪。2回戦のシュナーベル(西ドイツ)戦で肉離れに見舞われた山下。準決勝では格下のデルコロンボ(フランス)に大外刈りで「効果」を奪われるという、考えられない大ピンチを迎えた。右足は全く動かず、引きずるだけ。何とか足技の「技あり」から抑え込み、「一本」を取って勝利したものの、暗雲が漂った。

 しかし決勝は、ラシュワンの大外刈りを返して横四方固め一本勝ち。まさに逆境に置かれた状態で日本柔道の誇りを守った山下に、また、4年間待たされた五輪の畳で大きな怪我をはねのけて金メダルを手にした日本のエースの雄姿に、感動を抱かぬ者はいなかった。

 その4年前――。山下は全日本4連覇。23歳と、最も脂が乗っている年代だった。だが、ソビエトのアフガン侵攻に端を発し、日本政府がアメリカの要請を受けてモスクワ五輪のボイコットをJOC(日本オリンピック委員会)に強要。このとき多くのアスリートが涙を流しながら、「オリンピックは自分の最大の夢であり、参加したい」と訴えた。もちろん、山下もその一人だった。しかし、JOCは委員投票29人−13人で結局政府に屈し、モスクワ五輪をボイコットした。

 当時、山下がモスクワ五輪に出ていたら、ダントツの強さで金メダルを獲得しただろう。その後、4年間待たされてのロス五輪。ようやく山下は、子供の頃からの夢であった「五輪で金」を叶えることができたのだ。

 それでも実際には前述のように、まさに綱渡りのような大舞台だった。もし、ロスで山下が優勝できなければ敗因は4年間のブランクであり、全盛時代に力を発揮する機会を奪ったJOCや国に帰結されていただろう。山下は結果を出し、それを回避させたわけだ。

 こうしたことを経験している彼は、柔道を通じての国際交流、世界平和への貢献に対しては敏感。指導者になってからは、NPO法人柔道教育ソリダリティーを設立。柔道を教育的に発展させることに尽力している。

 強化において最初にサポート体制を組織し、視覚障害者柔道に対しては健常者選手との合宿の場を提供。また、自ら骨髄バンクのドナー登録をするなど目線も優しい。さらに、暴力問題にも厳しい目で取り組んでいる。多様性に富む山下の活動は、短い本章では書き切れない。

画像: モスクワ五輪ボイコットから4年――。 多くの感動を呼んだ金メダル獲得

Profile
やました・やすひろ 1957年6月1日生まれ、熊本県上益城郡山都町(旧・矢部町)出身。熊本市立藤園中‐九州学院高‐東海大‐東海大大学院。84年ロサンゼルス五輪無差別優勝。全日本選手権9連覇(77~85年)、公式戦203連勝(引き分け含む)、対外国人選手生涯無敗(116勝3引き分け)など数々の偉業を打ち立てる。84年に国民栄誉賞を受賞。現・国際柔道連盟理事、全日本柔道連盟会長、東海大副学長。

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