1903年日本最古のゴルフ場が神戸に開場し、日本のゴルフの歴史が始まり、それから多くのゴルフ設計家が日本のコースを造り上げた。
新シリーズ、日本の名コースを生んだゴルフ設計家たちの物語。
数々の名門コースを生んだ、日本が誇る名匠、井上誠一を探る。

挫折から設計家の道へ

 日本のゴルフコース造成黎明期に、この人がいてくれたおかげで日本のゴルフは威信を保っているといえる。その人の名はコース設計家、井上誠一。

 井上は明治41年、東京赤坂の眼科医の御曹司として生まれている。井上眼科は天皇御用達だったほどの名家だった。井上も家を継ぐべく医師を目指していたが、旧制高校時代に日本脳炎にやられ学業を中断し、川奈に療養。その時に、チャールズ・ヒュー・アリソンと運命の出逢いをして、コース設計家の道を歩むようになる。

画像: 井上誠一氏

井上誠一氏

運命を変えたアリソンとの出逢い

 アリソンは時の設計家の最高峰、ハリー・コルトの名代(コルトは高齢でアジアへの船旅に耐えられないと、同僚の47歳のアリソンを推薦)で、1930年、東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース設計のため来日。わずか3ヶ月滞在の間に東京GCの後、廣野GC、川奈ホテルゴルフコース・富士コースもデザインしている。この時に井上はアリソンに出会ったわけだ。井上、22歳の時だった。

 以来、井上はゴルフコース設計に関する書物を海外から取り寄せ、デザインだけでなく、土木工事に関する知識も貪欲に勉強した。アリソンは滞在中、4つの改造工事にも関与した。そのなかの1つが藤田欣哉、赤星四郎、両氏設計の霞ヶ関カンツリー倶楽部・東コース。井上は霞ヶ関に入会し、「アリソンの改造案に基づき東コースの改造工事を是非自分に」と懇願し、認められて携わった。その後、1932年には霞ヶ関CC西コースの改造を手掛け、ゴルフコース設計家として初の作品を完成させた。まさにアリソンの設計理念を引き継いだわけだが、アリソンと一緒に来日したシェイパー(グリーンキーパーでもあり、工事現場監督)のジョージ・ペングレースからも、井上は大いに影響を受けている。というのもペングレースは、アリソンが離日した後も日本に残り、工事現場の指揮を担ったからだ。造成設計の図面だけでは工事は出来ない。どうしてもグリーンの形状、高低、バンカーのエッジの切り方など現場で判断していかなくてはならない。ペングレースの仕事のやり方は、井上を刺激し続けたと想像出来る。設計理念は図面で表現出来るが、それを地面に刻みつけるのはシェイパーの力が絶対必要だと悟ったはずだ。

 以上の経緯をみても、井上がアリソンの設計思想を敬っていたのが理解できるだろう。井上も「自分のコース設計の先生は強いていえばヒュー・アリソンである」といって、仕事部屋にはアリソンが手描きした東京GC朝霞コースの平面図が掲げられてあった。

画像: チャーチル・ヒュー・アリソンの手書きの設計図

チャーチル・ヒュー・アリソンの手書きの設計図

井上誠一の設計思想

 井上の設計思想・理念を探っていこう――。井上がいちばん大切にしたのは「日本の未開発の山野を可能な限り、自然を活かした設計に」であった。英国のリンクスの荒々しさの摸倣とも、米国の人工的リゾートとも違う、日本独特の伝統美やその土地の風土にあった日本色豊かなコースを造ることを旨とした。そのために借景をいかに効果的にとりいれるか、また日本の雨の多さを配慮して溜池をつくり、その池もまたホールが映える要素に組み込んだ。自然の稜線を活かしマウンドの柔らかい曲線は女性の身体のラインをイメージさせ、“井上ライン”といわれる作風を確立した。

 次回はさらに井上の設計思想を掘り下げてみよう。

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