変わりゆく東京の景色。同じ場所で、今昔を見続けた人にしか分からない、その街の移ろいがあるのであれば、訊いてみたい。

 渋谷区神泉町にのれんを掲げる「串焼き 千羽」は、約40年間、神泉、渋谷を見続けてきた知る人ぞ知る名店だ。主人の酒井健次さんは80歳を越えた今なお、 奥さんである女将・貞子さんとともにお店を切り盛りし、包丁を握り続けている。

 二人の眼には、渋谷の半世紀の変移はどう映ったのか――。当事者だからこそ語れる渋谷の変貌を伺った。

画像: 渋谷のスクランブル交差点(Richard A. De Guzman/アフロ)

渋谷のスクランブル交差点(Richard A. De Guzman/アフロ)

「千羽は、平成15年までは神泉仲通りにお店を構えていたんだけど、その頃の仲通りは普通の商店街だったの。今は、お洒落な飲食店が増えて、その面影はあんまりなくなっちゃったけど」

 と、教えてくれるのは女将・貞子さん。生まれも育ちも神泉という生粋の渋谷区住人だ。昭和54年に開店した「千羽」。しかし、二人のなれそめは、東京オリンピックが開催される1964年以前にさかのぼる。渋谷をはじめ、新宿や六本木などの繁華街にデートに行くことも多かったという。

「新宿はディスコが多かったけど、当時の渋谷は、キャバレーやダンスホールが多かった。お店に入ると、ダンスを踊れる女の子たちがいて、男性はお気に入りの女性と踊るの」(貞子さん)

画像: 健次さんとともに店を切り盛りする女将・酒井貞子さん

健次さんとともに店を切り盛りする女将・酒井貞子さん

「僕は彼女を連れているもんだから、「踊っていい?」なんて許可を取ってから踊っていた(笑)。二人ともダンスに明るかったから、ダンスホールに行くのが好きだったんだよね」(健次さん)

 ダンスホールでは、マンボ、ドドンパ、ツイストなど、次々に異なるダンスの楽曲が流れていた。「ジルバぐらいまでだったら結構踊れる人がいるんだけど、タンゴの曲がかかるとなかなか踊れる人がいない。僕たちは踊ることができたから、スポットライトを独占しているような気分。今も昔も、新しい文化を追い求めるっていうのは変わらないよね」と健次さんが言うように、渋谷は昔から最先端の街であったことがうかがい知れる。

 しかし、貞子さんは「決して若者の街という雰囲気はなかった。ファミリーもいたし、大人が多いというイメージが強かった」と回想する。

「百軒店はその名の通り、小さくて雰囲気のある飲食店がたくさん並んでいたの。映画館も3~4つほどあって、幅広い層が楽しめる街だった。今も『名曲喫茶ライオン』は健在だけど、ライオンのような素敵な純喫茶がたくさんあったわ。道玄坂に行くと、専門店がたくさんあってね。呉服屋さん、団子屋さん、魚屋さん……何でも揃ったものよ」(貞子さん)

「飲み屋街も多かったよね。109からLABI渋谷がある一帯は「恋文横丁」と呼ばれた飲み屋街で、中央街とは違う雰囲気を持っていた。当時、中央街は安藤組(東興業)が仕切っていておっかなかったなぁ(笑)。特に、246沿いにある道玄坂上方面のお店は敷居が高くて、一見で入るのは無理だった。渋谷と言っても、いろんな人がいたんだよ」(健次さん)

画像: 店主の酒井健次さんは80歳を越えた今も包丁を握る

店主の酒井健次さんは80歳を越えた今も包丁を握る

 昭和48年にパルコが、昭和53年に東急ハンズが誕生する。昭和50年前後を境に渋谷の街は、次の局面へと進むことになる。「渋谷の街が若者の街へと変貌するのは、第二次ベビーブームによるところが大きかった」とは、健次さんの弁だ。

 日本は、1973年(昭和48年)の出生数約209万人をピークとする、1971年から1974年までの4年間に、立て続けに出生数200万人を越える第二次ベビーブームを迎える。

第二次ベビーブーム世代に合わせる形で変貌を遂げる

「東急の五島昇社長の時代を読む力はすさまじかった。第二次ベビーブーム世代に合わせる形で街を変貌させれば、その後、食いはぐれることはないでしょ!?(笑) 最も人口が多い世代に街のあり方を合致させることで、半世紀は人が集まり、消費も落ちない。センター街がバスケットボールストリートと改名されたときも、僕たちは「なるほど」と思ったくらい。その世代が過ぎ去ったのだから、新しくしないといけないんだからね」

 109の出店を決断し、たまプラーザ駅の命名を行ったのも故・五島昇社長だった。同じく西武グループも渋谷の街に進出することで、渋谷の街は急速に“ベビーブーム世代が若者に成長したときに訪れて楽しい街”としての側面を強めていく。現在、渋谷の街は再開発が行われ、大人の街として生まれ変わろうとしている。少子化に拍車がかかれば若者の街としては機能しない。ボリュームゾーンに合わせる形で、渋谷という街は変貌し続けているのだ、今も昔も。

「第二次ベビーブーム世代が高校生、大学生になったときくらいに、バブルが訪れたの。これを機に渋谷の街は、完全に違う街になったと思う。百軒店のお店も軒並みなくなってしまったわ」(貞子さん)

「商店街がなくなって、コンビニができたり、大きなマンションができたのは、全部バブルのとき。そりゃそうだよ、当時、渋谷の一等地の相場は一坪2000万円、10坪で1億円という天文学的な数字だった。みんなが土地を手放して、どこかの別荘地に行ってしまった。バブルは、本当に恐ろしかったなぁ。同時に、人の欲も」(健次さん)

 映りゆく情景とともに、千羽はずっと神泉仲通りで営業をし続ける。故・松田優作が足繁く通うなど、数々の常連から愛される名店として、渋谷を見続けてきた。だが、健次さんは65歳を過ぎたときに、お店をたたむことを決意する。「ずっとお店をやってきたんだから、そろそろのんびり暮らしてもいいかなって」。ところが、常連一同から「続けるべし」というラブコールが相次ぎ、今の場所で再開することとなる。

「このお店は、常連の一人だったスナックのママさんが見つけてきてもの。路地裏だから、飛び込み客は少ないだろうって(笑)。のんびりできるんだったらやってもいいかなって」と健次さんが笑えば、「でも最近じゃ、若い子たちもよく来てくれるの。入るなり、「昭和~!」とか「おじいちゃんの家に来たみたい!」なんてワイワイしている若い子たちを見ると、こっちまで楽しくなるわね」と貞子さんも相好を崩す。

画像: 店の看板メニュー「千羽焼き」は多くの人から愛されている

店の看板メニュー「千羽焼き」は多くの人から愛されている

 ずっとその場所を、その場所で、見守ってきたからこそ、宿るものがある。お店の看板メニューである3種類の香草が入った、オリジナルのつくね「千羽焼き」が、誰言うとなく今に続き、看板メニューとして常連、初めての人からも愛されたように、歴史は雄弁で、誰をも魅了する力を持つ。

「渋谷という街は不思議ですよ。オリンピックや第二次ベビーブームといった外的な要因で変貌してきた街ですから。ある意味、とても柔軟な街なのかもしれないね。だからこそ、東京の中の渋谷として何ができるかというのは、大事じゃないかな。渋谷だけ盛り上がったってしょうがないよね。それを見届けるまでは、板場につくつもりですよ」
(取材・文 我妻弘崇)

「千羽」
住 所:東京都渋谷区円山町17-2
電 話:03-3780-0285
営 業:18:30~1:00(LO 0:30)
定休日:日・第3土休

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