1930年、日本ゴルフの黎明期に来日し、設計した3つのコースは世界のトップ100コースの中に確かな位置を占めている。日本ゴルフコース設計界の始祖というべきチャールズ・ヒュー・アリソンの設計思想・理念とはどういうものだったのか。アリソンの足跡をたどってみよう。

オックスフォード大選抜で米国遠征

 アリソンは1883年、イングランド、ランカシャーに生を享けている。名門オックスフォード大学へ進み、神学、造園学を学ぶ傍ら、ゴルフ、クリケットの名選手として活躍。ゴルフではケンブリッジ大学との混成代表チームの一員として、1903年、米国遠征し、勝利を収めている。文武両道の才があったわけだ。 

 卒業後、ジャーナリストの職を経て、ロンドン郊外のストーク・ポージスGCのセレクタリーをしていた時に、後コース設計家の第一人者となる――ストーク・ポージスの設計者でもあった――ハリー・コルトと知り合い、助手となりコース設計を手伝うようになる。

 しかし、本格的にアリソンが設計者の道を歩むことになったのは、第一次大戦後、兵役(暗号解読のスペシャリストだったという)を終え、正式にコルトがアリスター・マッケンジーら3人で設立した設計事務所でパートナーとして働くようになってからだ。マッケンジーは後、コルトと離れ、球聖ボビー・ジョーンズの誘いであのオーガスタ・ナショナルを設計している。

「アリソンバンカー」で知られるチャールズ・ヒュー・アリソン氏

世界NO1、パインバレーでの経験で飛躍

 アリソンが来日したのは1930年だが、その10年前に当時、第1期ゴルフ場建設ブームにあった米国で、コルトの元で“修行”している。この修行が日本のためには大いにプラスになったと思われる。それは現在、世界ランキングNO1のパインバレーゴルフクラブに携われたことだ。 

 アリソンがコルトの助手としてパインバレーに現れた時には、クラブ創始者&設計者であるジョージ・クランプの手により14ホールまで完成していた。残りのホールをアリソンがアドバイザーとして設計業務を請け負ったが、直後にクランプが死去。そのために造成作業は一時頓挫したが、再開され1992年に完成。最終的にはアリソンが設計業務を取り纏めたという。大枠のデザインはコルトが決めていたが、このパインバレーでの貴重な経験はアリソンを一段と飛躍させた。

 パインバレーはバンカーだらけ、ウェイスト(砂地の荒地)地帯だらけ。ドライバーショットが200ヤード以上飛ばないとフェアウェイには届かないという典型的可罰型設計コースである。当時は英国のリンクスを範としたから、バンカーがポットバンカーになるのも、ウェイストが多くなるのも必然であった。1918年から1922年の間、パインバレーでバンカーを造成した経験が、後の日本でのあの有名なアリソンバンカーの素になっているというのが有力だ。もっとも日本で見聞した藁葺き屋根にヒントを得たのではという人もいるが、これはどうも後から作られたエピソードのようだ。

画像: 上空から見ると、バンカーとウェイスト地帯が多いのがわかる

上空から見ると、バンカーとウェイスト地帯が多いのがわかる

師コルトの身代わりで来日へ

 ともかく、アリソンは米国には9年間、滞在し約20コースの設計に携わったが、師コルト以上にバンカー配置を中心にコース難易度を高くする設計手法だったが、この原型がパインバレー時代にあったことは想像に難くない。

 米国時代を経て、英国に戻り、今度はコルトの助手ではなく、パートナーとして事務所を切り盛りするなかで、日本からの設計依頼の打診が来るのである。最初は巨匠コルトへの招聘だったが、アリソンより14歳年上のコルトは日本までの船旅に耐えられないとして、アリソンに白羽の矢が立ったのである。

画像: 砂の壁がそそり立つようなアリソンバンカー

砂の壁がそそり立つようなアリソンバンカー

 次回は、日本でアリソンの八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍ぶりを追ってみたい。

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