日本はどっちに走ってもすぐ海に出るから、と世界に飛び出した弟が今はもっと小さな島にいる。
オートバイ2020年7月号別冊付録第86巻第10号『THE SHAKE』より
©東本昌平先生・モーターマガジン社 / デジタル編集:楠雅彦@dino.network編集部

久しぶりに帰国してきた双子の弟

20年ぶりに弟が帰ってきた。
私たちは一卵性の双子である。

見た目はほぼ同じだが、中身はまるで正反対。日本に残って地道に働いていた私と違って、弟は狭い日本を嫌って海外で生きることを選んでいた。なんでも自分で試してみないと気が済まない弟は、世界中を飛び回った挙句に南の島のガイドをして暮らすようになっていた。15年前のことだ。

画像1: 久しぶりに帰国してきた双子の弟
画像2: 久しぶりに帰国してきた双子の弟
画像3: 久しぶりに帰国してきた双子の弟

倉庫にしまっていた思い出のバイク

「おっ、まだバイク乗ってんのケェ?」
弟は母屋の隣の倉庫の影に佇むバイクに気がついてそう言うと、私の許しを得ることなく徐に跨り、ほーっ なつかしい!と笑った。
不意に昔の恋人に出会ってしまって、忘れていた恋心に思わず火をつけてしまった少年のような顔で、彼はしばらくそのバイクから降りることがなかった。

いつでも動かせるように車検を通し、メンテはしていたものの、もう長いこと乗ってはいなかったそのマシンは、1980年代半ばにスズキがリリースしたGSX-R750だ。

空冷から水冷へと、オートバイのエンジンの主流がシフトし始めていたころ、スズキが選んだのは空冷でも水冷でもなく、油冷という特殊な方式だった。時代遅れとなりつつあった空冷を諦めるのはいいとして、他のメーカーに先行された水冷エンジンを作るのはなんともシャクだったのだろう、敢えてスズキは油冷という独自の路線を選んだのだ。
しかし、一時はライバル企業の水冷マシンに対抗できる素晴らしいパフォーマンスを見せたスズキの油冷エンジンだったが、80年代後半になるとサーキットでも公道でも水冷方式に太刀打ちできなくなり、やがて忘れ去られていく。

ちょうど私たちがバイクに興味を失っていった時期も同じころだった。
バイクに乗り出したのは弟の方が早かったが、飽きるのも早かった。私よりもはるかに要領のいい彼は、私よりも速かったのだが。

画像: 倉庫にしまっていた思い出のバイク

バイク、送ってやろうか?

数日後、弟は再び日本を離れ、島へと帰ることになった。私は妻と子供たちを連れて彼を空港まで送った。
今度遊びに来いヨ、と笑う弟に、私は「バイク送ってやろうか?」と言ったが、彼はバーカと答える。「オランダ領の小さな島だぜ」
バイクを送るには遠すぎるし面倒くさいだろう?という意味だろうと私は思った。実際、確かに面倒だ。バイク送ってやろうか?と言ったのはあくまで軽い気持ちの社交辞令のようなものであって、確かにそれほど本気というわけではなかったのだ。だが、案外振り向いて「バーカ」と言った弟の表情に、(マジで??)という喜色が一瞬浮かんだのを見逃せなかった。

そして、その弟の表情が、私の本気を引き出した。

画像1: バイク、送ってやろうか?

日本はどっちに走ってもすぐ海に出るから。
そう言って世界に飛び出したはずの弟が、今はもっと小さな島にいる。ジョギングでさえも島内のどこへでもいけそうな、そんな小さな島で、今彼はオートバイに乗っている。私と彼の思い出のバイク、時代が産んだ意地っ張りの一台、スズキのGSX-R750で。

画像2: バイク、送ってやろうか?
画像: 兄のオートバイ、弟の島
〜東本昌平先生『THE SHAKES』より

楠 雅彦|Masahiko Kusunoki
湖のようにラグジュアリーなライフスタイル、風のように自由なワークスタイルに憧れるフリーランスライター。ここ数年の夢はマチュピチュで暮らすこと。

This article is a sponsored article by
''.