「ロシア」の始まりは9世紀末ころ、現在はウクライナ国の首都となっているキエフを中心として成立した「キエフ・ルーシ(キエフ公国)」だという。
その、国と人間を意味した「ルーシ」という言葉こそが、「ロシア」という国名の由来なのだ。ユーラシア西端のロカ岬を目指してロシアの地を走り続ける一行は、いよいよヨーロッパへと近づいてきた。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

気がつけば感じたヨーロッパの空気

一週間滞在したクラスノヤルクを出発し、空港に二人目のボランティア通訳アレクセイ・ネチャーエフさんを迎えに行く。在日ロシア人のための情報交換サイトの掲示板で知り合ったアレクセイさんは、ウラジオストク在住の日本語通訳兼翻訳家だ。

今日は、クラスノヤルスク空港からそのまま西へ進み、ノヴォシビルスクを目指す。空港からの主要道路だからだろうか、路面が鏡のように滑らかだ。これまで悩まされてきた凹凸やギャップが一切存在しない。このまま続いてくれればいいのだけど。

交代で運転を担当しながら、走れるところまで走る……。

道路事情と併せて、走っているクルマの種類も変わってきた。日本車が減った分、ロシア車が増えた。クルマ好きのアレクセイさんが、教えてくれる。一番数多く走っているのが、ジグリ。フィアット124を当時のソ連でライセンス生産した、4ドアセダン。ジグリをよく見ると、ヘッドライトが4眼のものと2眼のものがある。

「ヘッドライトが4つあるのが、ラーダといいます。輸出するために、インテリアなどもちょっと豪華になっています」

社会主義体制下でも、とても資本主義的なバッジエンジニアリングが行われていたことに驚かされる。モデルチェンジした少し新しめのスタイリングの4ドアセダンと5ドアハッチバックも見掛ける。

モスクビッチは、3世代ぐらいのバリエーションをまんべんなく見た。同じスタイリングで長年作り続けられているらしい大きな4ドアセダンがヴォルガ。ジープスタイルのウアズ。

クラスノヤルスクまでは、ロシア車だろうが日本車だろうが中古車や大古車が多かったが、西へ進むにつれて、きれいで新しいクルマが増えていった。

国道M53を快調に西に進む。中央分離帯のない片側2車線は空いており、路面の良好さとあいまって、時速130〜140キロを維持できる。ところが、時速100キロを境にハンドルのブレが激しくなってくる。

「ホイールバランスが狂ったんじゃないかな」

あれだけダートや凸凹の激しい道を走ってきたのだから、ホイールバランスを調整する鉛が取れてしまっても無理もない。どこかタイヤショップか修理工場を探して、直したい。

その前に、ランチ。ノヴォシビルスクまでは先が長いので、ピロシキとソーセージでも買って、運転を交代しながら食べようということになった。

M53沿いの食堂兼よろず屋に入って品定めをしていると、店のオバちゃんが、「すぐできるから、中に入って食べて行きなさい」と、声を掛けてくれた。サービスというものが未だ皆無なロシアで、こうした人情に触れるととてもうれしい。

メニューは、ウズベキスタン風ラム肉を載せたカレー風味スープヌードルにトマトとロシア・キュウリのサラダ。

「これを掛けると美味しいわよ」

裏庭で育てているハーブを漬け込んだ自家製ビネガーともども、すべてこの辺りの自然の恵みを生かした手作りの美味さが生きていて、大いに満足した。ロシアでは、うまいものにありつけることに多くの期待を抱けないと諦めきっていたので、このオバちゃんのヌードルとサラダは驚きだった。飲み物も併せ、3人分で130ルーブル。

ちょっと走った先のアーチンスクという町の入り口にある自動車修理工場で、カルディナのホイールバランスを取り直してもらう。フロントの2本分で、30ルーブル。工場に、最新型のラーダ112 1.5GLI 16Vが停まっていた。

「ウラジオストクには走っていないので、初めて見た。カッコいい」

アレクセイは感心しているが、僕には「プロポーションの崩れた20年ぐらい前のジウジアーロ風」にしか見えなかった。

要所要所でカルディナのメンテナンス。アーチンスクの自動車修理工場でホイールバランスを調整。

ノヴォシビルスクには、午後10時少し前に着いた。クラスノヤルスクとは時差があり、腕時計を1時間戻す。1時間得したわけだ。日本とは、2時間差。ツェントル(中心)にあるホテルの2軒目にチェックイン。

ノヴォシビルスクは、1917年の革命以降、近代的な工業都市へと急速な発展を遂げ、約150万人とシベリアでは現在最も多くの人口を数える大きな都市だ。