2003年の夏に実施された、クルマによるユーラシア大陸横断の旅。2人の日本人とロシアでの通訳を務める在日ロシア人の合計3人、そして満載の荷物を乗せた中古のトヨタ・カルディナは猛暑の8月1日に日本の富山・伏木港をフェリーで出発した。あれから2年。無事に旅を終えて、いま思うこととは何か。エピローグ前編をお届けします。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

日ロ対立という事実、その重みは後に実感した

当時、極東ロシアと国境を接していた中国東北部は、満州帝国(最初の二年間は、満州国)と呼ばれていた。日本によって建国された満州帝国は「五族協和」「王道楽土」を唱えた新国家だったが、実質的には日本の植民地以外の何ものでもなかった。これは、満州帝国建国のキッカケとされた満州事変を調査した、国際連盟のリットン調査団も認めていることだ。

19世紀末から中国大陸や朝鮮半島に軍事的に進出した日本は、その先にある大国ロシアおよびソ連との全面的な対決をつねに想定していた。アメリカとの対決は状況次第のものだが、ロシアおよびソ連との対決は避けられないものという判断が、当時の軍部の中では強かった。

満州事変を起こした関東軍および日本の軍部、そして、それを支持した当時の日本国民の論理としては、「日露戦争で九万人もの戦死者を出して、日本は中国(アジア)からロシアを追い出したのだ」というものがあった。

町にはほぼ必ず像があった。

よその国に武力を以て進出することだけでなく、それを追い出したとしても、どちらも立派な侵略行為であると簡単に断罪できるのは、僕らが現代に於いて現代の常識のもとに生きているからであって、当時であったら違った答えが出てきても何ら不思議はない。このように、歴史というものの取り扱いは一筋縄ではいかない。

70年近くも昔の日本と厳しく直面しているという現実。カルディナが走るホンの50センチ右側に、それが存在している。その事実の重みは、旅行中よりもむしろ旅行後に強く感じるようになった。

道路脇のトーチカから、実際に関東軍に向けて弾が発射されたかどうかはわからない。関東軍は、この辺りからソ連に進軍することはなかったから、これらのトーチカが用いられることはなかったのだろう。

だが、情勢が逆に作用していたら、この道路をはさんで激戦が繰り広げられていたはずだ。そう考えただけで背中がゾッとしてきた。

ハワイやサイパン、そして沖縄を訪れると、太平洋戦争の傷跡があちこちに残されているが、ここのトーチカは手入れをされないまま剥き出しで残されている。日米間では、勝った方も負けた方も、戦争をちゃんと一度清算しているが、ここではそれが感じられない。ソ連兵が訓練で撃った薬莢のひとつやふたつぐらい落ちていても不思議ではない。

自分のものとなる認識、それはクルマ旅だから

この旅に出るまで、ロシアと日本の歴史的な関係にまで特別な想いを及ぼすことはなかった。

シベリアを走り抜ける道路の有無や、ポルトガルのロカ岬まで走り切るのに適した車種の選定、あるいはロシアやベラルーシのビザの取得方法などといった実際的な旅の準備だけで精一杯だったのだ。とても、歴史にまで気が回らなかったというのが正直なところだ。

旅する土地について予備知識を豊富に得て準備していった方がいいのか。それとも下手な先入観などに惑わされることなく、現地では素直に五感に従った方がいいのか。

日本の伏木港を旅立つ直前の記念カット。RUS号への乗船を手配してもらった伏木海運ロシア事業部ロシア事業課の川島 力さん(中央)、イーゴリ・チルコフさん(右)。背後に見えるのがウラジオストク行きフェリー“RUS”号。金子氏の表情はまだ安心感の漂うもの。

旅の方法、心構えとして、大別してふたつ考えられる。どちらも一理あるが、この旅に於いては、前者がふさわしかった。この点に関しては、後悔していると言ってもいい。

イーゴリさんから道端や草原の中のトーチカについて教わっていなかったら、70年前に日本とソ連が軍事的な緊張関係にあったことを、身を以て感じることはなかっただろうからだ。

また、このダイレクト感が、自動車旅行ならではの醍醐味に通じている。列車や飛行機、船などに「乗せられる」旅では、そもそもトーチカそのものが眼に入らなかったかもしれないし、たとえ眼に入ったとしても窓外のいち光景にしか過ぎないと気にも留めずに済ましていたかも知れないからだ。

極東シベリアと満州帝国について、事前に勉強していくことはできなかったが、歴史的な因縁のある土地(濃淡こそあれ、どんな土地にも歴史的因縁は存在するが)をクルマで旅することができたことは大きな収穫だった。旅から帰ってきてからこそ、その感を一層強くしている。

ハンドルやシートを通じて伝わってくる路面からの振動や雑音などの五感と一体化して、想いと記憶が心身に刻み込まれる。これは、列車や飛行機、船などのような、身を任せてしまう移動手段では得られない経験であろう。

躍進する中国の強大な力そして日本とのつながり

旅から戻ってきて、満州帝国や第二次大戦中のソ連と日本に関する歴史書などを読んでいると、自分たちが巡ってきた地名を見付ける。

たとえば、ブラゴベシチェンスクだ。ハバロフスクからアムール川沿いの極悪路を数百キロ進んでたどりついたここは、この辺りでは最も大きな街だった。

大きな街なのでボーダフォンのローミングが使えるはずだと携帯電話を開けてみたら、なんとモニター画面には「China Mobile」と表示され、アンテナが三本立っていた。

幅800メートルのアムール川の向こうは中国の黒河という街だ。ロシア側にローミングポイントがない代わり、中国の携帯電話網に川と国境を越えてアクセスできたわけだ。

中国の勢いは目覚ましく、川岸に立つと、黒河に建つ高層ビルが何本も見える。

船で渡ってくる中国人の観光客も多く、その目当てはカジノと買春だ。買春は公然の存在とも言えるほどで、いたるところに売春婦が立っている。僕らが最初にチェックインした小さなホテルも、どうやら売春宿らしかった。

部屋は粗末で、不潔。調度品も、素っ気なさ過ぎた。そこへ、ドヤドヤッとミニバンで客を連れてきたのが売春婦グループだった。

チェックインを取り止め、街で一番立派なホテルにチェックインし直した。フロントの宿泊料金表には、露ルーブル、米ドル、中国元が併記してある。しかし、そこも中国人の客を連れたロシア人売春婦だらけだった。

ひとりの中国人の太った酔っぱらいオヤジは、肌の露出が多い薄いドレスをまとった売春婦らしき白人女性を左右にひとりずつ抱えて、それぞれの胸元に中国元の札を押し込んでいた。

まるで漫画のような光景だったが、同様のことがあちこちで繰り返されていた。ブラゴベシチェンスクは、中国元の威力に蹂躙されている街だった。

そのブラゴベシチェンスクから、60年前の1945年8月9日にソ連軍の戦車がアムール川を渡って満州帝国へと進軍していった。これを関東軍の独立混成第135旅団が迎え撃った。戦いは8月21日まで続いたが、最後は10キロ爆弾を抱いて戦車に体当たりする攻撃を行い、約600名が戦死した。約1300人の別の部隊も同じ戦闘方法を採り、その七割の兵士が戦死したという。

その事実は、帰国後に書物から得たものだが、このことでブラゴベシチェンスクについての記憶が変形するわけではない。再び、彼の地に立ってみたいが、簡単にはいかない。記憶の陰影が増していく。
(続く)

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身のホームページに採録。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌にて連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの製作販売も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし6シーズン目に入る。

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