日本からクルマでロシアを走り抜け、ヨーロッパ西端の地まで行く。連続した経験を通して、ロシアやヨーロッパを感じてみたい。
そんなフトした考えから始まった、クルマによるユーラシア大陸横断の旅。
なぜ中古のカルディナを伴侶に選んだのか、そしてついにウラジオストクから走り出してどうだったのか。いよいよ旅はスタートする。
(文:金子浩久/写真:田丸瑞穂)
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

2003年8月3日/2泊3日の船旅を終えて、ウラジオストクにフェリーは到着。オートバイでロシアに渡った人も数名いた。

ウラジオは日本車だらけ
いざ走り出すと疲労困憊

2泊3日の「RUS号」での船旅とウラジオストクに着いてからの通関、その他のことも書きたいが、ここでは先を急がなければならない。

噂には聞いていたが、ロシア極東の都市ウラジオストクの街に、これほど日本車が溢れているとは知らなかった。ほとんどは中古車として輸入されたものらしいが、眼に入る99%が日本車だ。さらにその半数以上がトヨタ車。新旧大小のランドクルーザー、ハイラックスサーフ、RAV4などが多い。しかし、その一方でマーク2 3兄弟もすごく多い。

駐車されているクルマを見ると、ここがロシアのウラジオストク市内と思えないほどに日本車だらけ。旧来工法の堅牢そうな構造の建物が、日本とは異なる雰囲気を醸し出す。

日本車以外の1%は、ジグリやラーダ、モスクビッチ、ボルガなどのロシア車とドイツ車だ。

ウラジオストクに上陸して 3日目の8月5日早朝、ハバロフスクへ向けて走り出した。港とシベリア鉄道終点である駅、中央広場などがある中心地から離れていくに従って、街の様相がどんどん変わっていく。大きく立派なビルがなくなり、小さく、みすぼらしい建物ばかりになっていく。建物の数も減っていき、空き地が目立ってくる。これまで訪れたどの外国とも似ていないが、強いて似ている街を挙げるとすれば、バンコクやメキシコのカンクーン辺りか。

放射線状に何本もの幹線道路が街の外に向かって走っていて、交通量はけっこう多い。乗用車の他に、バス、トラックも目立つ。ボディサイドに「○○商店」とか「××工業」と日本語で書かれているトラックも珍しくない。

片側2車線の流れは速く、80km/h以上で流れている。運転マナーは悪くなく、日本の常識から外れることはない。ただ、道が悪いのには参った。路面にフラットなところがなく、どこかしら必ず凹凸がある。凹凸なら、まだいい。大きな段差や穴が、何も前ぶれもなく現れるのだ。日本ならば、その手前にパイロンを立てて車線規制をするようなものでも、みんな平気で走っていく。でも、よく見ていると、段差や穴のある場所を憶えているのかどうか、急ハンドルを切って巧みにかわしていくドライバーがいる。

慣れないこちらは、忙しい。前後左右のクルマの流れをマクロで捉えつつ、同時に迫り来る段差や穴を一つずつ避けなければならない。これから1万5000km以上走らなければならないというのに、なんというミクロな運転をしているんだ。走り出してまだ2時間も経っていないのに、疲れてしまった。同時に2種類の神経を酷使させられている。ラリードライバーというのは、これに近い運転をしているのではないか。

ウラジオストクを出ると、林と原野が続く中を走る。自動車専用道路ではないが、片側2車線と1車線が混じる国道だ。ウスリースクという、最初の大きめの街を通り越した辺りからクルマの数がグッと減ってくる。道も、ウラジオストク周辺より悪くなった。

もともと少なかった標識も、ほとんど見当たらない。途中で、迂回路の標識を見落としたらしく、いきなり道がなくなっていたほどだ。

ウラジオストクの街中を除外すれば、初めて走り出したロシアの道路だったが、僕らは大いに打ちのめされた。劣悪な道路整備状況と、標識や車線表示などの不備の中を走るのがこれほど苦痛だったとは。ドシンッ、バタンッという肉体的な苦痛でもあったが、日本や欧米とあまりに大きく異なる交通状況を受け入れるのに、神経を磨り減らされたのだ。

検問所の係員たちと一緒に記念撮影。こちらはちょっと緊張したが、やけにフレンドリーな表情を見せてくれたのが意外だった。少々のおみやげを贈呈。

だが、困難はそれだけではなかった。これ以降、ロシアの道路では毎日何度となく苦しめられることになるものの最初の洗礼が、すぐそこに待ち受けていたのだ。  (続く)

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Vol.1から振り返ろう

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身のホームページに採録してある。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌で連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの製作販売も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし5シーズン目に入る。