ロシア発・世界唯一のサイドカー専業メーカー「ウラル」。その魅力を広めるべくウラルジャパンCEOとして活躍するブラド氏は、理想を実現するために日々努力を欠かさない。その成功の影には、ブラド氏が生涯を通して嗜む「武術」があった。ここでは成功者の多くが嗜んでいるといわれる武術の世界をブラド氏の半生とともに紹介していく。

ロシアから日本へ。
空手、剣道から始まった武術人生

1回目ということもあり、まずは自己紹介からさせてください。

本名はVolkhin Vladislav(ボリヒン・ブラジスラーフ)、ロシアではみんなにVlad(ブラド)と呼ばれていました。
1990年にロシアの極東地方に位置するウラジオストク市に生まれ、幼い頃からスポーツと音楽に興味を持ち、 7歳で松涛館空手道場に入門。武道の世界に足を踏み入れました。

当時はただただ楽しくて、子供だったからか『強くなりたい』という考えはなかったです。あまり覚えていませんが(笑)。

ただ、大会で“勝ちたい”という気持ちがあったことだけはよく覚えています。

10歳の頃、学校の陸上部に入部。当時は空手そっちのけで練習に打ち込みました。すぐに短距離ランナーとして試合に出始め、ウラジオストクで1位、沿海地方1位など好成績を修めます。

とても陸上の成績が良かったので、13〜14歳のとき、オリンピックリザーブスクール(スポーツ専門学校みたいな教育組織)にプロモートされましたが、そのときはプロスポーツ選手になりたい!という気持ちがまったく無く……若い子によくある、自分の生き甲斐は他にあるんじゃないか?という考えで断りました。

とにかく何か新しいことをやりたかったんですね。

剣道との出合い

陸上に打ち込んではいましたが、心の中には武術というのがずっとありました。そこで両親に「またやりたい!」と話したところ、地元新聞に「ウラジオストク剣道クラブ生徒募集中」という広告を母親が見つけきて「やってみたら」と?

それで13歳のときに剣道をはじめました。当時のロシアで「剣道」を知っている人はほとんどいなかったと思います。やってみたら見事にハマりまして、ほぼ毎日稽古に明け暮れます。その後、セミナーに参加したり、大会に出たりして、16歳のときには全国剣道大会に大人部として参加。

当時ロシアではマイナーだった剣道。これがきっかけで日本に興味を持ちました

剣道を通して日本人に会う機会も多かったんですが、当時は「ありがとう」しか言えませんでした。そのうち武術のメッカ、というイメージのある日本の文化と日本語に興味がでてきて、高校卒業後は極東連邦大学の日本語学科に入学を決めます。入学試験はとても難しかったですが、無事に合格して17歳で日本語の勉強を開始。

ただ、残念なこともありました。
ちょうど入学する直前で足を怪我してしまい、剣道の稽古をすることができなくなってしまいます。半年後にようやく回復したときはもう勉強が忙しすぎて、道場に戻れませんでした。

親に内緒でバイクを購入

いまでこそバイクメーカーにいますが、若い頃は両親に「危ないから、ダメ!やめとき!」と言われていて……。

それでもずっとバイクに乗りたかったので、18歳でアルバイトを始めて、19歳のときに親に内緒で初めてのバイクを買いました!

最初はボロボロのYamaha Serow。その次はKawasaki KDX、Kawasaki KLXなどオフロードバイクを乗り継ぎます。

私の学部は5年制。その間、勉強やバイト、バイク、バンド(地元の割と有名なバンドで数年間ドラムを叩いていました)など、忙しい日々が続きます。大学時代はスポーツに取り組むことはできなかったんですが、週に数回は自重トレーニングをして肉体作りはやっていました。