ロシアのどの街にもあるもの、それも一番いい場所にあるもの。それはロシアの思想家「レーニン」の像だという。どの街にも「レーニン広場」があり、帝政ロシアに終止符を打ち、ソビエト連邦を樹立した社会主義革命の指導者を称えていたのだ。
そして、そのソ連が崩壊して13年後の2003年。ロシアの実状に触れた。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

外食する人が少ないのは忙しい人がいないから

ようやく目的地に着き、チェックインを済ませ、さあ夕食にどこの店に入ろうかという、選ぶ楽しみはない。探す苦労の方が多かったくらいだ。ある程度の規模の街でも、外食ができる店の数は限られている。

一人目のボランティア通訳のイーゴリ・チルコフさんが言っていた。

「ロシアでは、外食をする人が少ないんです」

「でも、仕事が忙しくて自分で夕飯を作れない人は困るでしょう」

「ロシアには忙しい人はいません」

たしかに、仕事帰りにほろ酔い加減になっているサラリーマンが集う一杯飲み屋やバーというのが見当たらない。広場や公園、川のほとりのベンチなどで缶ビールやウオッカを瓶から飲んでいたりする光景が当たり前だった。

また、あの、世界中のどこに行っても店を広げている中華料理店も、あまりなかった。クラスノヤルスクとサンクトペテルブルグで偶然見付けたぐらいだ。他にもあったのかもしれないが、どこでもすぐに眼に飛び込んでくるはずの赤と金の看板は稀少だった。日本食やイタリアンなど、もっての他。

ロシアで楽しみにしていたのは、土地ごとのウオッカを飲むことだった。食料品店の壁には食べ物は乏しくても、期待通り、様々なウオッカがたくさん並んでいた。あいにく、毎朝規則的に早くに起きる生活を続け、夜はすぐに眠くなってしまったので、僕はウオッカの味の違いを見極めるほどは飲めなかった。田丸さんとアレクセイさんは、たくさん飲んでいたけれど。

ズラリと並んだウオッカの品定めをする金子氏とアレクセイ氏。ロシア名産のキャビアも探したが、本物のキャビアは現地でも高価だった。金子氏がステアリングを持っている理由も、後々にお教えしよう。

日本と較べれば、確かにロシアの食べ物事情は乏しいものだった。でもそれが不満かというと、すぐにそういうものだと慣れてしまった。カネさえ払えば、どんなものでも食べることができる日本と、身の回りにある食材の範囲内で調理できるものしか食べないロシアの違いはとても大きい。

また、食堂やレストラン、さらにはホテルの数が少ないのも、観光とかツーリズムというものがソ連崩壊後14年を経てもまだ発達していないことも影響しているのだろう。

「ロシア人ですら、国内の遠距離旅行に行くことは簡単ではないんです。おカネ持ちじゃないと、遠くにはなかなか行けませんから」

アレクセイさんも言っていた通りだ。ロシアの人たちは、広大な国土のあちこちに張り付くようにして暮らしている。
(続く)

アムール州のスコヴォロジノという街の自動車用品店。実は、この街から鉄道による移動を行ったのだが、その話は次回にて。

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身のホームページに採録してある。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌で連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの製作販売も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし5シーズン目に入る。

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