ロシアのどの街にもあるもの、それも一番いい場所にあるもの。それはロシアの思想家「レーニン」の像だという。
どの街にも「レーニン広場」があり、帝政ロシアに終止符を打ち、ソビエト連邦を樹立した社会主義革命の指導者を称えていたのだ。
そして、そのソ連が崩壊して13年後の2003年。ロシアの実状に触れた。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。
画像: 「CCCP」とは、1917年から1991年まで存在した「ソビエト社会主義共和国連邦」の略称である。ローマ字ではなくロシア文字(キリル文字)なので、「エスエスエスエル」と読む。英語ではUSSR(Union of Soviet Soccialistic Republics)。ちなみに、金子氏が購入したこのジャージはアディダス製。クラスノヤルスクの百貨店にて。

「CCCP」とは、1917年から1991年まで存在した「ソビエト社会主義共和国連邦」の略称である。ローマ字ではなくロシア文字(キリル文字)なので、「エスエスエスエル」と読む。英語ではUSSR(Union of Soviet Soccialistic Republics)。ちなみに、金子氏が購入したこのジャージはアディダス製。クラスノヤルスクの百貨店にて。

広大な国土に住む人々の日常に触れながら見た
ロシアのもうひとつの姿

ウラジオストク、ハバロフスクといった極東沿海州を代表する大都市から外れて、西へ西へと進んでいくと、ロシアのもうひとつの貌(かお)が見えてくる。

旅とはいえども、そこには僕らの移動しながらの生活と日常がある。ロシアを西に進み、ユーラシア大陸最西端のロカ岬に到達するという目標に向けて毎日を送っているわけだが、3度の食事を摂り、シャワーを浴び、睡眠を取ることはどこへ行っても変わらない。

朝は余裕がある時以外は、あまり食べなかった。少しでも早く目的地に到着していたかったから、必然的に朝の出発時刻が早くなっていたからだ。だいたい、いつも7時前後にホテルをチェックアウトしていた。旅の後半になって、1日の移動距離が長い日には、6時に出たこともある。7時や6時にチェックアウトすると、ホテルの食堂や街のカフェは、まだ閉まっていることが多い。

反対に、昼食は休憩の意味もあり、なるべく店で調理された食事を摂ることを心掛けた。ガソリンスタンド脇や小さな集落の出入り口付近には、そうした需要を賄うためのカフェがあり、よく入った。カフェは、ロシア語で「KaФe」と書く。楕円に縦棒を一本引いた、漢字の”中“の字に似ているので、この看板だけは判読可能で忘れることがなかった。

カフェで出される料理は、ほとんどどこでも同じだった。種類も少ない。グリーンかトマトのサラダ、もしくはボルシチやペリメニという水餃子と始めとする数種類のスープ。メインは挽肉を固めて焼いたもの(要は小さなハンバーグ)、ソーセージ、鶏モモ焼き、等々。あとは、付け合わせに炊いた米か、ソバの実といったところか。パンは、サンドイッチ大のものに1枚単位で値段が付いていた。

飲み物は、地域毎のビール、コカコーラ、ファンタやチェリオのような人工的な味と色の付いたオレンジジュースやグレープジュース、ミネラルウオーター。紅茶はティーバッグで、コーヒーはインスタント。

味は推して知るべし。一皿の盛りが少ないことはどこでも共通していて、値段も安い。ひとり2品に飲み物を付けて、3人分でせいぜい700〜800円。1000円を越えるようなことはなかった。当然、支払いはルーブルのみ。ルーブルは、持参したドルを大きな街のホテルや街の両替屋で交換していた。

どこでも、こんな感じが続くので、食事の楽しみに対する期待は旅の早いうちに自然と放棄していた。

それでも、偶然に出会った美味いものが三つあった。

ひとつは、ハバロフスクからブラゴベシチェンスクの間の食料品店のオバちゃんお手製のピロシキ。日本のような高度に発達した流通手段など皆無なので、ピロシキのような食品は売り場の裏で作られている。当たり外れがあるけれど、このオバちゃんのは油が新鮮で、生地にコシがあり、具の味付けが良かった。この時は、昼食用にひとりピロシキと小さなリンゴを2個ずつ、ジャムパン1個ずつを買って、車内で移動しながら食べた。

二つ目は、ウランウデとイルクーツクの間、バイカル湖畔の露店で買ったオムリという魚の薫製だ。バイカル湖でたくさん獲れるこの魚は、大きさやカタチが鱒と鰊を合わせたような感じで、味はどんな魚にも似ていない。強いて言えば、秋刀魚や鱈、鰺の一番濃い味の部分が濃縮されたものだろうか。とにかく、向かいの食堂で一緒に買ったパンが進む味だった。

これがバイカル湖で獲れる魚「オムリ」の薫製。濃厚な味わいで「めちゃめちゃうまかった」とカメラマンの田丸氏も感激した。

三つ目は、ずっと先の西シベリアで食べた肉の串焼き。ノヴォシビルスクから先の街や村を通ると、串に刺した肉を炭火で焼いている露店をたくさん眼にする。チェリアビンスクの先の、ヤルトロフスクという小さな街のホテルにチェックインし、IP402という幹線道路沿いの食堂で食べた串焼きが美味かった。肉は、牛、豚、子羊が選べて、拳ぐらいの大きさのどの肉塊にも独自のスパイスが擦り込まれている。肉が新鮮な上に、肉のうま味を引き出すスパイスが絶妙だ。

「ウズベキスタン人のバーベキューですね」

二人目のボランティア通訳アレクセイ・ネチャーエフさんの解説だ。

彼によれば、ウズベキスタン、キルギスタン、カザフスタンの人々は肉を美味く食べさせることに長けているという。蠅だらけの食堂だったが、ロシアに来て初めての美味いディナーだった。

尾籠な話で恐縮だが、食べたり、飲んだりすれば、当然、出るものが出る。ロシアで驚かされたもののひとつがトイレだ。街道沿いの食堂や食料品店のトイレは、必ず、店の外にある。ドアもないような、粗末な半畳ほどの建物に足を踏み入れると、あまりの臭さに口をつぐんでしまう。勇気を出して、中を覗き込むと、いわゆる便器は存在せず、床に開いた大きな穴の中にウンコが山盛りになっているのである。これが、鼻が曲がるんじゃないだろうかというぐらいの悪臭を放っている。

穴は地面に掘ったものだから、そのうち一杯になるはずだ。でも、アレクセイさんによると、時間が経つと自然に喫水線(?)が下がってくるから、汲み取りも新しい穴を掘る必要もないのだという。一体どうなっているのだろう。

とにかく、ロシアの野外トイレに入る時には鼻を摘まなければならない。それがわかってから僕たちは、小用の時はトイレには入らなかった。いくらでも原野が広がっていて、人の眼なんてなさそうなのだから、木陰に行って立ちションしていた。

立ちションも善し悪しで、チタからウランウデに向かう途中の白樺林で事に及んだところ、こちらの放出物が地面に叩き付けられた瞬間に、黒い地面がウワッと立ち上がってきた。一瞬、何が何かわからなかったが、すぐに蚊だということがわかった。中央シベリアの蚊は、日本のそれよりも一回り大きくて、動じないのだ。終わるまでの間、右手と左手を交代しながら、蚊を手で払わなければならなかった。

蚊は、ホテルの部屋にもたくさん入り込んで、容赦なく刺しに来る。また、蚊ほどの実害はなかったが、蠅の多さにも辟易させられた。食料品店の棚に並んでいる、剥き出しのピロシキやパンに何匹も蠅がたかっていても、ロシアの人はあまり気にしない。昔の東京でもたくさん見られた蠅取り紙がこちらでもポピュラーで、食堂や食料品店の天井から吊されている。でも、すぐにたくさんの蠅が獲れるから、新しい蠅が張り付くスペースがなくなっているものをよく見た。追い付かないわけだ。
(続く)

画像1: ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.7 〜もうひとつの貌(かお) 〜

金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身のホームページに採録してある。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌で連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。

画像2: ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.7 〜もうひとつの貌(かお) 〜

田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの製作販売も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし5シーズン目に入る。

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