長年勤めてきたテレビ局を辞め、自由な生活を求めてほぼ廃墟化したカフェを借りて住み着いた松ちゃん。行きつけの喫茶店 炉煎(ロイ)のマスターの孫娘のソノミと急接近中だが・・・
Mr.Bike BGで大好評連載中の東本昌平先生作『雨はこれから』第59話「口笛の滑走路」より
©東本昌平先生・モーターマガジン社 / デジタル編集 by 楠雅彦@dino.network編集部『雨はこれから』

若さを失っている?後悔したくない一心なのは老いた証拠?

たまのバイト的な手伝いでいきつけの喫茶店・炉煎の珈琲豆のデリバリーを引き受けていた習慣が、しばらく前から途絶えていて、炉煎に足を運ぶことも少なくなっていたが、この日私は久しぶりに炉煎に顔を出してみた。

炉煎のマスターの孫娘のソノミが最近よく私を訪ねてくるようになっていたが、マスターはそれを知っているのかどうかはわからなかった。当然私からそれを切り出す必要もないわけだが。
ソノミは見た目は派手だが、案外気のいい娘だし、バイクの腕も確かだから、会いに来てくれること自体は悪い気もしないし邪険にする理由もない。ただ、自分よりもはるかに若い女の子と出歩けば、世代の差というものを感じざるを得ないのも事実だった。
はじまったばかりの若者の人生と、折り返し地点を過ぎても生き方に迷う私の人生とでは、共通点は数えるほどしかない。その数少ない一つであるバイクにしても、彼女の乗るBMWのスポーツバイクに抜かれて追い縋ろうにもその速さについていけず、さらには自分の動体視力の衰えを思い知らされてしまう始末だ。マスターにソノミのことを訊かれたら少し気まずいかもと思いながらも、私は(ソノミと比べれば歳の近い)マスターとの無駄話を恋しく思っていたのかもしれない。

何かを始めるのに遅すぎるも早すぎるもない?

「来週レースがあるんですがネ」
炉煎のマスターは切り出した。

「松ちゃんもそろそろエントリーしましょう!」

年甲斐もなく、とは言いたくないが、マスターはオフロードのバイクレースにハマっているのだ。
「練習もしてないのに・・・できませんヨ」と私は即座に断ったが、マスターは「まだ練習する時間はありますよ」と言う。

どう断ろうか、と思いつつ手元のコーヒーカップに目を落とした私だったが、マスターはなおも「どうです?」と畳み掛けてきた。

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なんでもできるさ。そんな思い上がりが人生には必要だ

58にもなると、何事にも慎重になってしまう。若い頃の無鉄砲さは、今の自分にはないものだった。
助走なんて必要ない、いつでも全力で跳び上がる力が有り余っていたはずだった。それがいつの間にか、ほんのチョッと飛び上がろうと長い助走を走って疲れてしまったのだろうか。

せめてもう一度くらい浮かび上がって調子に乗りたいものだ、と私は思った。
自分よりはるかに若いソノミを見ていると自分が老いたという事実をつきつけられているようだったが、私よりも年上のマスターの誘いを即座に受けられない自分にも呆れざるを得ない。年齢じゃない、単に私が老け込んでいるだけじゃないのか??

思い上がりが必要だ、と私は思った。勇気なのか、無謀なのか、とにかくなんでも食いついて飛び上がってみせる、そんな力と思い切りが私には必要なのだ、そう思った。

せめてもう一度、調子に乗ってやるさ。私は胸の内でそう独りごちた。

楠 雅彦|Masahiko Kusunoki

車と女性と映画が好きなフリーランサー。

Machu Picchu(マチュピチュ)に行くのが最近の夢。