1991年にソ連時代の「レニングラード」市から、起源をロマノフ王朝時代に持つ旧名の「サンクトペテルブルク」市へと復帰された、由緒正しきこの大都市で待ち受けていたのは、都会ならではの手荒い歓迎(?)ぶりであった。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。
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ユーラシア大陸自動車横断紀行 Vol.14 〜「お主もワルよのう」〜
雑踏と渋滞の大都会 サンクトペテルブルク
先日、ロシア西部の沿ボルガ連邦管区のセルゲイ・キリエンコ全権代表が来日し、トヨタ自動車の奥田碩会長と会談した。
キリエンコ代表の目的は、トヨタ自動車の工場進出を誘致することにある。沿ボルガ連邦管区の行政所在地はニジニーノブゴロドで、19世紀初頭から、機械、造船、化学などの工業が興ってきた。
1932年から89年までは、ゴーリキー市を名乗っていた。ロシア中で見掛ける時代遅れの大型乗用車「ボルガ」を製造するGAZ(ゴーリキー自動車)の本社所在地でもある。第二次大戦後は軍需産業のために外国人立ち入り禁止の閉鎖都市になり、ミサイル配備基地にもなっていた。
そのニジニーノブゴロド中央駅前にカルディナを停め、切符売り場でドルから両替したばかりのルーブルで買ったバナナとピロシキ、ヨーグルトを朝食代わりに頬張りながら、僕らはこの日の作戦会議を開いていた。
国道M7を西に進み、420km先のモスクワに滞在するか、それともモスクワから北北西に進み、サンクトペテルブルクまで一気に行ってしまうか。
最終目的地はサンクトペテルブルクで、そこから予約してあるフェリーに乗ってバルト海経由でドイツに入る予定になっている。
モスクワの赤の広場でも冷やかしてみたい気分もあるし、モスクワだったら旅行保険を扱っている業者も多いだろう。カルディナでドイツ以西のヨーロッパを走るためには、「グリーンカード」と呼ばれるヨーロッパ共通の自動車保険に加入しなければならない。
東京では扱っていないし、これまで旅してきたロシアの都市でなかった。ロシアはこの保険が適用されないというのだから始末が悪い。
何かトラブルに巻き込まれたら、4日後のフェリーに間に合わなくなることも考えられるので、検討した結果、1163km先のサンクトペテルブルクに直行することにした。
消費を美徳とする文化の浸透はまだまだこれから
M7は、中央分離帯のない片側2車線がずっと続く。交通量は西に進むほどどんどん増えていき、走っているクルマもロシア車が減って、ヨーロッパ車が増えていく。
カルディナの調子はといえば、ウラル山脈を越えて発症した2100回転前後でのエンジンの咳き込みが、なぜか上の方に移動して、3000回転前後で出るようになってきた。だましだまし走るしかない。
加えて、アイドリング時にエンジンとトランスミッションがボディを揺する振動がハッキリと大きくなった。無理もないだろう。特に、ウラル山脈越えの際に、前方の遅いクルマやトラックを追い越すために、数え切れないほどスロットルペダルを床まで踏み込んでキックダウンさせていたのだから。
エンジンやトランスミッションをボディに取り付けているマウント部分が激しく消耗していても不思議はない。
M7がモスクワに近付いていくと、周囲に住宅や建物、工場などが増えていく。郊外を進んでいるわけだが、日本や欧米の郊外とは雰囲気が違う。
郊外の光景に付きものの、自動車ディーラーやファミリーレストラン、ホームセンター、スーパーマーケット、ショッピングセンターなどの商業施設がほとんど見当たらないのだ。
フォルクスワーゲンやフォードの看板を掲げたディーラーの前をたまに通り掛かるだけだ。首都モスクワの郊外と言えども、消費文化の浸透はまだまだこれからのようだ。
モスクワの市内に入る直前で渋滞が起こっていた。東京を出発してここまで来るまで、ロシアで体験する初めての渋滞だ。原因は、目の前に見えるモスクワ環状道路へ進入するクルマと分岐するクルマの混雑だった。
地図で見ると、環状道路はモスクワを一周している。道路そのものは大きく立派なもので、片側5〜6車線もある。進入路も分岐路もキチンと作られており、レベルはとても高い。
規模からすればアメリカのロスアンゼルス辺りのフリーウエイに近い。これまでのロシアの道路からは隔絶している。ロシアで初めて体験する渋滞に巻き込まれながら、初めての自動車専用道路を走った。