1991年にソ連時代の「レニングラード」市から、起源をロマノフ王朝時代に持つ旧名の「サンクトペテルブルク」市へと復帰された、由緒正しきこの大都市で待ち受けていたのは、都会ならではの手荒い歓迎(?)ぶりであった。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。
環状道路の一部分を走った後、そこから北西に放射状に向かうE95→M10と進む。ロシアの道路には街灯がほとんど設置されておらず、暗い中を走らなければならないのは、このモスクワ→サンクトペテルブルク間も変わりはない。
だが、車外のどこか遠くに灯りが見えていることが大きな違いだった。つまり、完全なる闇から解放され、人間の営みが点在するところまでやって来たわけである。
サンクトペテルブルクに着いた時は午後11時を回り、ようやく見付けたホテルにチェックインできた時には午前0時を回っていた。
モスクワは街に入らなかったので知らないが、サンクトペテルブルクは僕らが通過してきた、ロシアのどの街よりも大きく、そして立派だった。
街の中心部にいたるまでの大通りの両側には、石造りの大きな建物が整然と並んでいる。ウラジオストクやイルクーツク、クラスノヤルスクなどで見た、どこか社会主義風の街並みではなくて、パリやウィーンなどの古くからのヨーロッパの大都市と共通した雰囲気を漂わせていた。
ガソリンスタンドや通行人に尋ねながら辿り着いた、中心部から道路を2、3本脇にそれたホテルにチェックイン。何軒か満室で断られた末の一軒だったので文句は言えなかったが、ロシアでワースト1のホテルだった。
フロントの女性が居丈高なことには慣れたが、部屋と建物全体が古く、暗く、臭い。風通しが悪く、どこかジメジメしている。こんな時間なのに、老婆の掃除婦が廊下をモップ掛けしているのが、不気味だ。
夕食を摂りに出掛ける元気は3人とも残っておらず、ホテルの前に立っている檻付き(窓ガラスと受け渡し口すべてに鉄格子)キオスクでポテトチップと缶ビールを買って済ませた。バスルームのお湯は、やはり、出なかった。
宿探しの困難とパンクのダブルパンチで疲弊する
翌日は、朝からホテル探しだ。昨晩目抜き通りを通ってきた時には何軒もの大型ホテルや世界規模で展開しているフランチャイズホテルがあったので、どこかにチェックインできるだろう。
だが、それは甘かった。5つ星から3つ星までの8軒すべてで、「空き室はない」と断られたのだ。外国人だからかと、アレクセイさんひとりをフロントに向かわせても結果は同じだった。事前に、旅行社を通じて予約を入れていないと門前払いなのだろうか。
どこの国のホテルでも、宿泊を断る理由はいつでも「空き室なし」だ。本当のことを言ってくれれば、こっちだって対応の仕方を改めるのだから、少しは正直になってくれてもいいんじゃないか。
イライラしながら、渋滞中のネフスキー大通りを少しずつ進んでいったら、歩道の子供が運転席の窓ガラスをコンコンと指でノックし、右後輪を指し示して立ち去っていった。
窓から首を出して確かめると、右後輪タイヤがペチャンコだ。
「パンクしているから、路肩に寄せよう」
渋滞中で、歩道にも歩行者があふれているから、用心して、ふたりを車内に残し、自分だけでカルディナを降りた。
シュ〜〜〜〜〜〜ッ。
右後輪のピレリP6のサイドウォールに穴が開いて、空気が漏れている。アイスピックのような尖ったもので刺さない限り、こんな穴は開かない。僕らの間に、一気に緊張が走った。ドアロックして、その場でタイヤ交換を行う。ここまでパンクひとつせず僕らを快適に運んでくれたピレリP6を、ルーフに積んできたスペアに履き替えた。
田丸さんは、ちょっと前に、後続車が車間距離を開けたり詰めたりと、不自然な動きをしているのをミラー越しに見たという。
「見付けたら、ブッ殺してやる」
ホテルは、夕方になって、ようやくネフスキー大通りに面したB&Bにチェックインすることができた。立地抜群、リーズナブル、部屋広大で設備優秀。はじめからここに来ていれば良かった。
翌日は、タイヤ屋を探して、刺されたP6を交換することから始めた。ホテルからカルディナで15分ぐらいのところにタイヤ屋と交換業者があった。P6は在庫がなく、ヨコハマA539を買った。1本1990ルーブル(約8000円)。聞いたことのないロシアや中国製タイヤが店頭で幅を効かせているが、価格はヨコハマやブリヂストン、ミシュランなどの半分から3分の1だ。
「あー、あんたたちもやられたのか。流行っているんだよ、渋滞中にタイヤをパンクさせて、動揺している隙にドアを開けて荷物を盗むのが」
店員が哀れんでくれた。
「昨日も、テレビの”警察24時“っていう番組でやってたけど、映ってたのはあんたたちじゃないよね」
交換業者は、僕らが穴の開いたP6を要らないと言うと大喜びしていた。パッチで穴埋めすれば、いい値段で売れるのだ。この国では、乗用車用でも中古タイヤ、再生タイヤの使用は当たり前なのだ。
(続く)
金子 浩久 | Hirohisa Kaneko
自動車ライター。1961年東京生まれ。このユーラシア横断紀行のような、海外自動車旅行を世界各地で行ってきている。初期の紀行文は『地球自動車旅行』(東京書籍)に収められており、以降は主なものを自身のホームページに採録してある。もうひとつのライフワークは『10年10万kmストーリー』で、単行本4冊(二玄社)にまとめられ、現在はnoteでの有料配信とMotor Magazine誌で連載している。その他の著作に、『セナと日本人』『レクサスのジレンマ』『ニッポン・ミニ・ストーリー』『力説自動車』などがある。
田丸 瑞穂|Mizuho Tamaru
フォトグラファー。1965年広島県庄原市生まれ。スタジオでのスチルフォトをメインとして活動。ジュエリーなどの小物から航空機まで撮影対象は幅広い。また、クライミングで培った経験を生かし厳しい環境下でのアウトドア撮影も得意とする。この実体験から生まれたアウトドアで役立つカメラ携帯グッズの製作販売も実施。ライターの金子氏とはTopGear誌(香港版、台湾版)の連載ページを担当撮影をし5シーズン目に入る。