2003年の夏に実施された、クルマによるユーラシア大陸横断の旅。2人の日本人とロシアでの通訳を務める在日ロシア人の合計3人、そして満載の荷物を乗せた中古のトヨタ・カルディナは猛暑の8月1日に日本の富山・伏木港をフェリーで出発した。あれから2年。無事に旅を終えて、いま思うこととは何か。エピローグ前編をお届けします。
文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。

ソ連の脅威とは日本軍、いまも残るトーチカの姿

ウラジオストクから極東シベリアを走る間、原野の中にたくさん見掛けたのが、かつてのソ連軍が作ったトーチカだった。

トーチカは陸地を進軍してくる敵の歩兵や戦車などを迎え撃つものだから、外側は分厚いコンクリートで覆われ、銃口を差し向ける薄い長方形の穴だけが穿たれている。中に立て籠もった兵士は、弾の尽きるまで、撃ち続ける。

大きなものならば、3〜4階建てのビルぐらいの高さがあり、広い草原の起伏の中や、丘と丘の間に目立たないように設えられている。小さなものは犬小屋大のものが地面から顔を覗かせている。

画像: ソ連の脅威とは日本軍、いまも残るトーチカの姿

土を被せて周囲と同じ草を生やしてカモフラージュしていたが、巨大な躯体と、発射口周りに見え隠れする、年月の経過を物語っている鉄枠の錆色と暗く沈んだ灰色のコンクリートが、周囲の自然とは異なった質感を醸し出していた。

小さなトーチカは、近いものではカルディナが通る道のすぐ横に構えていた。道路沿いの家屋よりも近いものもあった。

トーチカは、みな同じ方を向いている。ウラジオストクからハバロフスクへ向かって北上している時にはトーチカは西を向き、ハバロフスクからブラゴベシチェンスク、ブラゴベシチェンスクからスコボロディーノへ進んでいる時には南を向いていた。つまり、すべて中国との国境を向いている。

僕らの旅にロシア語通訳として同行してくれた留学生のイーゴリ・チルコフさんによれば、これらのトーチカは、みな第二次世界大戦前に作られたものだという。

イーゴリさんの専攻は現代アジア史で、主に日本やロシア、中国などの第二次世界大戦前後の歴史を研究している。

「ソ連は、当時の中国軍が攻めてくることを想定して、これらのトーチカを建てたのではありません」

では、ソ連軍は何を想定していたのか。それは、日本軍である。正確には、1932年に建国された満州帝国に駐屯していた日本の「関東軍」を迎え撃つために、ソ連は着々と準備を進めていた。その痕跡が、いたるところに残されているのである。

画像: 伏木港のそばには、ロシア向けのお土産を満載した販売車がいた。

伏木港のそばには、ロシア向けのお土産を満載した販売車がいた。

画像: 外国人に金魚掬いはどう映るのだろうか。

外国人に金魚掬いはどう映るのだろうか。

画像: 旅立つ前のカルディナ。かなり綺麗だ。

旅立つ前のカルディナ。かなり綺麗だ。

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