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貧困にあえぐ男に対する差別的な憐憫や冷笑
事前情報では、コメディアンを目指す心優しき青年が、狂気に囚われた悪魔へと変貌していく様や、その過程を描いた作品という印象だったが、実際には元々精神障害を持つ男が、なんとか社会に適応しようとあえぐ姿と、そんな必死の想いを単なる憐憫と冷笑でもって軽くあしらってしまう“普通の人々”の態度に傷つき、やがて暴力によるカタルシスに完全に依存していく哀しい物語なのだった。
本作の舞台はバットマンシリーズのそれである、ゴッサムシティ。貧富の差が広がり、不況の極みにあって、街は職のない者が溢れて非常に不安定な状態にある。そもそも不安定な精神状態にある者からすれば、ダークサイドに引き込まれてしまうリスクは、そこら中に転がっている。
いや、抜け出しようのない貧困の中で苦しむ人たちにとっては、つらい日常に対する呪詛と憎悪の念を抱えて生きているのであり、善人であろうとすることはとても難しいに違いないのである。
『タクシードライバー』を想起させられた展開
本作では(やがてジョーカーへと変わっていく)主人公アーサーの憧れの存在であり、テレビで自身の冠番組を持つ人気MC マレーを、名優ロバート・デ・ニーロが演じている。
だからなのかもしれないが、本作を見ていると僕は1976年公開のデ・ニーロ主演の傑作『タクシードライバー』を思い出されてならなかった。
同作は、ベトナム戦争の帰還兵トラヴィスが強度の強迫症と不眠症に苛まれ、夜を徹して街を流すタクシードライバーになるが、やがて自分をそうした状態に追い込んだ社会自体を浄化しようと考えるようになる、というものだ。
トラヴィス当初有力政治家の暗殺を試みるが失敗し、たまたま知り合った幼くして売春婦として働く少女が所属する売春グループを殲滅するという“義挙“を行うことで、社会的には善意のヒーローとなる。
しかし、実際には彼は狂気に蝕まれており、その狂気のはけぐちとして暴力に傾倒していた。つまり、彼とジョーカーは紙一重の存在だと言えるのである。
アーサーが胸の内に抱えた暗鬱な情念を暴力によって発散していくなかで、徐々に彼独特の意味不明な乾いたユーモアとの結合が生まれていき、それがジョーカーという存在を生んでいく。一つのきっかけによって悪の権化に変身したわけではなく、幾度となく繰り返されるきっかけが重なり合って、とんでもない怪物が生まれていく。
アーサーが怪物になってしまい、トラヴィスが社会的に受け入れられたのは、あくまで偶然というか運命の歯車の入り方の違いにすぎなかったのだと僕は感じた。
そしてどちらにしても、2人に共通するのは、いかにも容易に銃が手に入る環境にいることであり、狂気を暴力に結びつけてしまうきっかけを容認している社会に問題があると言えるかもしれない。
主人公がジョーカーとなる瞬間に感じること
本作は、繰り返しになるがDCコミックきっての悪役(ヴィラン)ジョーカーの誕生を描いた作品だ。
勧善懲悪のストーリーではないし、見ようによっては犯罪を連鎖的に生み出しかねない恐ろしさを抱えている。なにせ、悪魔が生まれる過程を描きながら、その悪魔が退治されるところは描かれない作品だからだ。
(本作にはジョーカーの仇敵であるバットマンは出てこない。が、やがてバットマンがジョーカーの前に立ち塞がるであろう展開を想像できるようなっている。ただ、それはこの作品がバットマンシリーズのヴィランを描いているという基礎知識を必要とするのだが)
そして、平均以上に健康的な精神状態と、強い遵法への信念を持っていると自負する僕でさえ、本作の主人公アーサーが内に抱える闇に呑まれて、完全にジョーカーへと成り変わるその瞬間に、ちょっとした喝采を捧げたい気分になっていた。それだけ本作は素晴らしい出来であると同時に、呼びたくもない悪魔を召喚しかねない強い“ダークサイドへの誘い”という暗い魅力を孕む作品であると思う。
だから、心身的に疲れていると感じるときは、この作品を見ないほうがいい、健全な精神状態の時に合わせて鑑賞してもらいたいと強く思う。
小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。dino.network発行人。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。
ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。