一歩間違えばジョーカーを生みかねない試練の中で、人生をポジティブにとらえさせてくれた環境が描かれた、心温まる作品
本作はドイツ映画であり、主人公のサリーはスリランカ出身の父親とドイツ人女性の間に生まれた二世だが、作中彼がその血筋によってなんらかの差別を受けることは全くない。障害者であるゆえのハンディはもちろん存在し、それがサリーを苦しめるが、社会的な差別ではなく、あくまでその障害があるゆえに顕れる、やむを得ない制限にすぎない(障害者として扱われることや、視覚障害があっては無理と思われる仕事につくことは困難であると決め付けられてしまい、マッサージ師や電話対応の仕事にしか従事させてもらえないことなど)。本当のドイツがそうであるのかはわからないが、本作内ではサリーがそうした差別に苦しむことはなく、実にフェアな社会にみえる。
確かにサリーが重度の視覚障害者であることを明かしてしまうと、彼を受け入れてくれるホテルはなく、やむなく彼は目がほとんど見えないことを隠さざるを得ないのだが、それは致し方ない現実であるといえるだろう。
むしろ、本作では、サリーの障害に気づいた周囲の人々の温かい支援(それは同情ではなく、あくまで温情であり、決してサリーを甘やかしたりするような行為ではない。サリーを障害者として扱うのではなく、彼の血の滲むような努力へのリスペクトによるものなので、本当に清々しい行為)がえがかれており、素直に感動と共感を覚えさせてくれるのだ。
サリーは障害を隠して、ミュンヘンの格式あるホテルの研修生として入り込むことに成功する。目が見えない代りに、サリーは聴覚や触覚などを磨き上げてハンデを乗り越えようと努力するが、どうしても一人では乗り越えられない壁が幾度となく現れる。そんなとき、彼の秘密を知る者たちは、代りになにかをしてあげるのではなく、そっとささやかなアシストをするのだ。サリーはそんな周囲の温情に助けられ、同時にそういう情けに過度にすがることなく、なるべく自分の力で障害を乗り越えようと奮闘するのである。
思うに、本作のような社会であれば、『ジョーカー』の誕生はない。
一見しただけではわからないハンディを抱えた人たちでも社会進出できるようなシステムを作る、またはそうした人たちを差別しないことはもちろん、過度に甘やかしたりもせず、健常者と比べて足りていないところはそっと補ってあげて、当人たちのやる気や努力をスポイルしない、正しく彼らと向き合う姿勢を皆が持つようにすれば、ジョーカーではなく多くのサリーを僕たちは迎え入れられるはずだと思う。
ちなみに。
タイトルに書いた、納得がいかないこととは、サリーが努力の末に得る幸せが、ちょっと思っていた結末とは違う方向に向いていることなのだが、それはまあ良しとしよう。それに、そのことに触れることはネタバレになってしまうしね。
小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。dino.network発行人。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。
ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。