個性的でずば抜けた2人のレーサー
冷静沈着なニキ・ラウダ
2019年、惜しまれつつもこの世を去ったF1界のレジェンド、ニキ・ラウダ。
近年は現行レギュレーションになってから圧倒的な強さを誇っているメルセデスのノンエグゼクティブチェアマン(非業務執行会長)としてチームを支えていた。
ドライバーとしては1975年・1977年にはフェラーリで、1984年にはマクラーレンで世界タイトルを獲得した名ドライバーでもある。
1976年、ニュルブルクリンクでの大事故により死の寸前まで追い詰められながらも、わずか6週間で奇跡の復活を遂げた話はあまりにも有名だ。
オーストリアの資産家の息子として生まれたラウダは、レース活動に反対だった父の意向を無視してレースの世界に入ったため、家にある資産をあてにすることができなかった。
そのためラウダは自分でレースの資金を工面する必要があった。卓越した交渉術で銀行から融資を受けることになったが、担保は自らの生命保険だったという。苦労しながらもレース資金を集め、確実にステップアップしていった。
1971年に念願のF1デビューを果たしたラウダだが、当時在籍したマーチのマシンは戦闘力がなく、しばらくは目立った成績を残すことができなかった。そんな彼が自らの才能を開花させるきっかけとなったのがフェラーリへの移籍だった。
3度世界王者になった男
ラウダがフェラーリに加入する前年の1973年、フェラーリはシーズンを通じて1勝も挙げることが出来ず不振にあえいでいた。1974年はラウダ加入だけではなく、チーム代表にルカ・モンテゼーモロが就任、デザイナーにはマウロ・フォルギエリが担当するなどチームに大きな変革がもたらされた。
その結果1974年は、ラウダが自身初優勝を含め2勝をマーク、ポールポジションに至っては9度も獲得するなど飛躍の年となった。勢いそのままに翌年ラウダは自身初の世界王者に輝き、1977年には2度目のタイトルをフェラーリにもたらせた。
1979年にF1から引退し、自身が行う航空ビジネスに専念するも1982年にマクラーレンでF1に復帰。1984年にはチームメイトのアラン・プロストをわずか0.5ポイント差で退け3度目の世界王者に輝いた。
1985年に2度目となる引退を表明し、その後は自身の航空機産業のビジネスと並行して、古巣のフェラーリや現在のレッドブル前身だったジャガーなどF1チームの首脳を歴任。
2012年にはメルセデスF1チームの非常勤会長に就任し、当時マクラーレンにいたルイス・ハミルトンをメルセデスに迎える。2014年から同チームはドライバー・コンストラクターで6連覇の偉業を達成するわけだが、この偉業にラウダの功績は欠かすことが出来ないものだ。
ラウダの抜群の速さや優れた分析能力は、ネルソン・ピケ、アラン・プロスト、ルイス・ハミルトンなど多くのチャンピオンに影響を与え、2019年5月にラウダの悲報が届くと世界中の人々が悲しみに暮れた。