『フイチンさん』はハルピン生まれの中国人の女の子フイチンを主人公とした、戦後間もない日本の少女漫画。その作者である上田としこ(トシコ)の生涯を描いた、村上もとか先生の意欲作だ。
© Shogakukan Inc. All rights reserved.
上田 トシコ
1956年頃撮影
1956年頃撮影
本名上田俊子
生誕1917年8月14日
日本の旗
日本東京府東京市
死没2008年3月7日(90歳没)
日本の旗
日本東京都
活動期間1936年 - 2008年
ジャンル少女漫画
代表作『ボクちゃん』
フイチンさん
『あこバアチャン』
受賞第5回小学館児童漫画賞
(『フイチンさん』)
第18回日本漫画家協会賞優秀賞(『あこバアチャン』)
第32回日本漫画家協会賞文部科学大臣賞(「全作品」)
テンプレートを表示

『サザエさん』の長谷川町子と並ぶ、日本の漫画黎明期に活躍した女性漫画家をヒロインにした作品

本作は、戦後の復興期に登場し、手塚治虫らとともに漫画界を盛り上げた女性漫画家 上田としこの生涯をドラマチックに描いた作品だ。

上田としこという名を知っている人は令和の世になった現在ではかなり少なかろうと思う。その意味で、作中自分よりも年若のライバルとして主人公のとしこが常に意識し続けた、同じ女性漫画家の長谷川町子(言わずととしれたサザエさんの原作者)と比べると、その功績や偉業にそぐわない日陰の存在となってしまっている人だ。
ただ、日本の偉人・英雄の中でも最大級の知名度を誇る坂本龍馬や宮本武蔵でさえ、(前者は)司馬遼太郎や(後者は)吉川英治などの文豪に題材として取り上げられなかったら、今日の名声はないわけだし、そこはやむを得ないところだろう。というよりも、村上もとかという素晴らしい漫画家によってその生涯を劇画化されたということ自体、彼女の足跡はやはり多くの人の記憶に留めるにふさわしい意味と意義があるのだと思う。

上田としこは、プロの漫画家としては遅咲きで、同じ時期に活躍した長谷川町子や手塚治虫らと比べると、年齢的にはかなり上(漫画界のみならず社会全体が男性優位の時代にあって)、さらに 女性であること、日本国外(ハルピン)で育ったこと、終戦に伴う混乱期には確かに苦労はしたものの、比較的お嬢様暮らしが長く庶民の生活への共感が乏しいという評価を受けがちであったことなどと併せて、常に時代に乗り遅れることを怖れていたという。それだけに、彼女は極端なハードワーカーとして、女性蔑視の風潮に抗い、さらに若手の台頭に負けまいと懸命に働いた(彼女は欠点多き人であったが、ライバルを蹴落とそうと画策するような暗さは一切持たず、若い才能を伸ばす支援を積極的に行う 性根の明るい人であった)。そんな彼女の様子を、村上もとか先生は丹念に描いている。

後進の漫画家たちのために路を拓いた上田としこの功績

上田としこは遅咲き、と書いたが、実際全10巻のうち、としこが漫画家として活躍を見せ始めるのは後半になってからだ。
絵描きとしての才能は早くから見せるものの、女性の社会進出を強く阻む当時(昭和初期から戦後の復興期)の世情や、自分自身の才能を信じきれないうえに、彼女自身が家や家族の生活の維持という、漫画家というまだまだ(現代の認識と さらにかけ離れて)不安定であった職業に全てを懸けることをためらわせる理由(エクスキューズとも言える)があったのだ。

本作の前半は、ハルピンで日本人のみならず中国人やロシア人、そしてさまざまな身分や境遇の人々と触れ合ってきたことによって(男性上位主義だけは抜き難くもっていたものの、民族や貧富の差に対する差別は持っていなかった父親の影響もあり)、社会の多様性を重んじる女性に育っていく様が丁寧に描かれ、後半は敗戦によって命からがら帰国した家族とともに生きていくために懸命に働く中で、漫画家として大成していく様子を描いている。(『フイチンさん』誕生秘話も描かれる)

漫画の神様として名高い手塚治虫が常に若手の成長に脅威を覚えていたことは有名な話だが、本作でもその様子は描かれている。そしてその手塚治虫を励まし力づけるとしこ自身もまた、前述のとおり時代に取り残されてしまうことへの怖れを抱え、怯え続けていた。

世間から受けるいわれのない差別やバッシングに、内心深く傷つきながら、それでも戦うことをやめなかったことによって、後から輩出された多くの(男女を問わず)漫画家たちのために路を拓いた彼女の功績を、終盤こそ駆け足になりながらも、村上先生は丹念に描き切っている。

強く生きることを許されたとしこの強運

としこは自分自身の負い目にも感じていたようだが、裕福な家庭の中で不自由なく暮らせたことで、あまりお金に困るということがなかった。それがゆえに庶民に共感できていないと謗られることになるのだが、いざとなれば家を頼れる、金がある、という背景が、彼女をして会社の横暴や社会の圧力に断固として抵抗する靭さを与えていたことは否めないだろう。

ジョンとロバートのケネディ兄弟が、政権についてから、断固として既得権を貪る層に対抗できたのも、自分たちがそもそも金持ちであり、献金や富裕層からの援助に頼らなくて済んだからだが、としこにも同じような運があったと言える。(金持ちの家に生まれることでスポイルされる子供も多いと思うが、その逆もまたあるのである)

また、彼女は当時としては飛び抜けて背が高く(167cmとのこと)、周囲の男性と比べても遜色ない、物理的に高い目線を持てた。体格で男性に負けない、ということは、彼女の負けん気を支える良い武器になっていただろう。
(坂本龍馬も当時としては長身だったし、同時期の偉人 西郷隆盛もまた巨軀で有名だったが、そうした大きな肉体のアドバンテージは、彼らの主張により強い説得力を与えたことだろうと思う)

女性漫画家のパイオニアとして立ち、新たな社会を作ってきた上田としこと、その代表作『フイチンさん』。彼女たちのことを記憶に留め、さまざまな教訓をいただくことは、後に生きる我々にとっての義務と思うし、本書を手にとる大きな理由となると考えるのである。

話は違うが、村上もとか先生が描くヒロインの多くは、外貌の美しさに加えて、しなやかな鋼鉄のような靭さを持つ女性だ。
恋人にしたいかどうかはおいて、人間として尊敬せざるを得ない素晴らしい女性たちばかりで、なんとしても友人の1人としてそばにいることを許されたいと常に思うのだ。

画像: 『フイチン再見!』(村上もとか先生作)を読んで再認識したいパイオニアの苦悩

小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。

ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。

This article is a sponsored article by
''.