『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』などの名作で知られる映画監督ジャン=リュック・ゴダールと、彼の2番目の妻にして女優のアンヌ・ヴィアゼムスキーの夫婦生活を描いたフランス映画。

女性を幸せにはできない天才

1960年代後半から70年代のパリを舞台に、商業映画に嫌気がさして共産革命と学生運動に感化されていく芸術家と暮らしながら、徐々に壊れていく愛をどこか冷静な目で見ている若き妻アンヌ。彼女の目線を通しながら、2人の愛の巣が壊れていく様子を描いたのが本作だ。
具体的にいうと、恋仲になった2人(ゴダール37歳、アンヌ19歳)が結婚し、そして離婚するまでの数年間を描いている。

ゴダールは、アメリカで言えばアンディ・ウォーホルのようなポジションだと思うのだが、同じ変人?でもウォーホルは物質文明の申し子というか、俗物的であることをカルチャーにまで高めてさらにカリスマになっていき、その反面ゴダールは自ら生んだ映画の新しい波を全面否定してしまう危うい繊細さの中にどんどん溺れていった。
どちらが良くてどちらが悪いということはない、ただ共通しているのは、どちらのタイプも 美しいミューズ(女性、とは限らない)を必要とするわりに、相手を幸せにはできないということだ。

フランス映画も大作に限る...?

リュック・ベンソン監督の『TAXI』や、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』など、フランス映画はわりと好きな作品が多いのだが、本作に限らず、フランスもしくは英国以外のヨーロッパ系小品は、全体的に抑揚が乏しく会話中心の展開になりがちで(その割に耳から入る情報として、言葉がまったく分からないからかもしれないが)途中で退屈してしまうことが多い。ハリウッド映画の作風にすっかり毒されていると言えるのかも知れない。

本作では、天才ゴダールはその片鱗を見せることなく(既に名声を得たあと、しかもそれを捨て去ろうとしている状態から始まる)、ただただ変人というか、芸術家らしさはひたすら偏屈に感じさせるだけの存在だ。
アンヌは恐らく、我々が知る“あの”ゴダールの煌めきを見て惚れたのだと思うが、観客である我々にその煌めきが提示されることはない。
アンヌは、芸術家の恋人=ミューズとして時代のアイコンであることに最初は満足していたと思うが、彼女自身は社会的成功を望む普通の若い女性だったはずで、ゴダールからさまざまな薫陶を受けたことによる精神的な変容はあったにせよ、自分がよく知る“あの”ゴダールが、革命を望む当時の社会熱狂に影響される中で、本来の煌めきを失ってただの変人に変わっていく様を、観ている我々と同じくうんざりした思いを抱いていたのだろう。

本作は、タイトルのごとく、最後はアンヌがゴダールとの離婚を決意するところで終わるが、もうかなり早い段階で観ている方は、かつての自分と自分の作品の否定だけでなく、商業映画制作に関わる友人たちにも敬遠されていくゴダールの姿に、哀れさを覚え、嫌気を感じてしまう。(前述のように、それが最近のフランス映画全体にいえる、作りの問題なのか、それともそのしつこさにもはや耐えられない自分が悪いのかはわからない)

ちなみに、フランス(非英語圏の欧州)映画ぽいなと思うところがもう一つ。男も女もやたら脱ぐ、のだ。そして日本国内公開に合わせてモザイクがかかるが、恐らくは本国ではモザイクなしで見せているのだろうという作りになっている。
ヒロインのアンヌは恐ろしく華奢で胸も小さく、肌も黒子やそばかすが多くて、これまたハリウッド的なセクシーさもフィットネス的な合成感もなくひたすら生々しい。正直エロさを感じることはないのだが、これもまた 商業映画に毒されていることの証左なのだろうか。

画像: 『グッバイ・ゴダール』60年代に輝きを放った天才映画監督とそのミューズの穏やかならぬ暮らし

小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。

ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。

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