チャドウィック・ボーズマンの遺作として話題になったNetflixオリジナル作品。
20世紀初頭に活躍した実在のブルース歌手 マ・レイニーとそのバンドがシカゴで挑んだレコーディングの模様を描いた会話劇だが、奴隷解放後も現在にまで続く人種差別の、無意味さと無慈悲さを訴えている。

金はあっても尊敬されない、と感じる者の孤独

主人公としてタイトルに名を残しているのは、ブルースの母と称されるマ・レイニー。
1900年代初めに その圧倒的な歌唱力で絶大な人気と不動の地位を得た実在の人物だが、20世紀前半のアメリカにあっては、音楽に詳しくない白人たちにとってはただの派手で金は持ってそうな黒人に過ぎない。
当人もそれがよくわかっていて、自分をチヤホヤしてくれる白人は、彼女の声が金を産むと理解している“業界人”だけだという“事実”に苛立っている、という設定だ。

運良くブルースという音楽と、表現者としての才能を得られた自分は、狭い世界での人気とたいていの黒人には夢見ることさえできない大金を持つことが許されているが、結局 白人からの扱いは 珍獣に対するそれと変わらないし、尊敬されているわけではない、ということをよく知っている。

だからせめて、自分の世界では(音楽に関わる、ブルース歌手としての自分が存在できる環境では) 白人に阿ることなく自分勝手を貫こうとしている。それがゆえに、彼女の振る舞いは、ひどく傲慢で専制君主のそれのようにみえる。

本作のもう1人の主人公は、ブラックパンサー役で世界的スターに上り詰めながら、2020年8月に急逝したチャドウィック・ボーズマン。マ・レイニーのバンドメンバーとしてトランペットを吹く野心家の若者レヴィを演じている。

レヴィは幼少の頃に白人の暴徒に母親をレイプされ、父親をなぶり殺された過去を持つが、自分が作った曲を売り込み自分のバンドを持って成功することが、白人たちへの復讐となると頑なに信じている。
彼はマ・レイニーが抱える憂鬱を知らず、マ・レイニーのような成功者になってのし上がれば、白人社会に対して自分が抱く複雑な感情も解消されると信じているのである。

マ・レイニーとそのバンドメンバーたちがレヴィを疎ましく思っていることは、本作の冒頭からすぐ感じ取れる。レヴィの才能や、彼が抱く野心を理解はしても、そんなものが白人社会の中の自分達の存在価値を変えてくれるモノではないと知っている“大人”からすれば、レヴィの考えは意味のない思い込みに過ぎない。だけどそれをレヴィに説いたところで彼を変えることはできないだろうし、その説得自体が 自分達が抱える悩みや苦しみを告白することになるからだ。

成功して金に困ることはなくなっても、依然として人間扱いされていないことに憤懣を覚えるマ・レイニーと、成功すれば全てが解決すると無邪気に信じるレヴィ。その2人のコントラストが、本作のテーマであり、現代にもつながる問題提起なのだろうと思う。

バスケットボールやボクシングなどのプロスポーツや、音楽や映像などのエンターテインメント業界において大成功している黒人は数多く、人種差別に直接晒されたことがない者ならば、大金持ちになれる環境になっているのにもはや差別などないのでは?と思っているかもしれない(多くの日本人はそうだろう。しかし、本来は黄色人種として差別を受ける側の存在である)。
しかし、マ・レイニーの気分と同じで、金はあっても尊敬されているわけではない、逆に金を持つことで 羨望と嫉妬を含んで複雑化した根源的かつ強烈な蔑視を受ける羽目になったと感じている人々は多いのだろう。

どんなに努力しても超えられない壁の存在に気づいてしまった者の悲劇

本作は、シカゴのとあるレコーディングスタジオでの1日を描いた会話劇であり、映画作品というよりも、舞台劇を観ているかのような作りだ。それもそのはずで、この「マ・レイニーのブラックボトム」は、オーガスト・ウィルソンが1982年に発表した戯曲『Ma Rainey's Black Bottom』を原作としている。つまり、元々舞台劇として作られた作品の映画化なのである。

レコーディング・スタジオというひどく狭い空間では 傍若無人に振る舞えるマ・レイニーは、その狭い世界を支配していても より広い社会では無力なことを知っている。彼女のバンドメンバーの黒人たちは、マ・レイニーの支配下にあるほうが直接白人に支配されるよりよほどマシと思っているので、大人しくマ・レイニーの横暴に従っている。

マ・レイニーの立場になれば自分の世界を広げられると無邪気に信じているレヴィは、そんなバンドメンバーたちの諦念に苛々するし、マ・レイニーが直面している、どうやっても超えることができない高い壁の存在に気づきもしない。

やがてレヴィの不満が暴発し、理不尽な悲劇を引き起こすことになるのだが、それはより高く飛ぼうとして墜死してしまうイカロスの切なさに似て、黒人に生まれたというだけで人生を諦めるには十分すぎる理由になってしまう、自身を取り巻く絶望的な理不尽さに気づいてしまった者の哀しさだ。

2020年は、一般的にはコロナ禍に覆われた1年という感想になるだろうが、エンターテインメントの世界では、これまで以上に人種や性差などに対する差別が大きなテーマになった年だったように思う。
本作のみならず、非常に多くの“差別問題”や“社会格差”への提言をメインテーマにした作品が目立っていたと感じる。

感染症流行による、逼塞した世界ゆえのことなのか、実際にそうした“差別”を問題視するべき状況になっていたのか、あいにくその理由を断じることはできないが、現象として“差別意識”の撤廃を声高に叫ぶ者が多かったことは意識しなければならないだろう。

本作の制作者に名を連ねているのは、人気実力ともにトップクラスである黒人俳優デンゼル・ワシントン(いまやその息子のジョン=デヴィッド・ワシントンもスターだ)。
肌の色と関係なくハリウッドきっての成功者と思われる彼にして、本作のプロデュースを買ってでるということは、やはり彼のような成功者にしても 自らの出自を意識させられるような“事件”が日常にある、ということなのだろう。

その意味で、本作(やその他の“差別問題”をテーマにした多くの作品)が訴えるポイントを、幸いにして意外にも巨大な島国に生存が許されている我々も、ちゃんと我がこととして受け入れ、認識するべきなのだろうと考える。

画像: 『マ・レイニーのブラックボトム』金と地位はあっても人間の尊厳が得られない辛さを描いた問題作

小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。

ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。

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