文:金子浩久/写真:田丸瑞穂
※本連載は2003〜2004年までMotor Magazine誌に掲載された連載の再録です。当時の雰囲気をお楽しみください。
フェリーで渡るバルト海
サンクトペテルプルグのフェリー埠頭で、いい加減待ちくたびれていた。午後7時が出航予定なのに、もう6時を回っている。ドイツ・リューベック行きのトランスフィンランディア号に乗るのは僕らのカルディナだけじゃないわけだから、のんびりしていていいはずはない。でも、何も始まる様子がない。ここは単なる岸壁で、回りには何もない。ゲートをくぐって出国してしまったから、街に戻ることもできない。
船会社職員のナターシャも婦宅してしまったのか、見当たらない。早く乗船して、シャワーでも浴びたいのに、始まる気配が何もない。
ようやく6時30分を回ったところで、ツナギの作業着の男ふたりが、停車中のクルマの間を回って、乗船を促してきた。僕らにも、ロシア語と身振りで“行け、行け”と言う。
トランスフィンランディア号は、船尾を桟橋に接岸し、開口部を開けていた。乗船するのは、カルディナとトラック4台だけらしい。
昔のソ連軍人のような緑の制服を着た女性職員が何か書類を記入しながら、近付いてくる。
「この文字は何と読むのだ?」
屈みながら、ポールペンで練馬をカンカンと叩いている。たぶん、そういうことを聞きたいのだろう。
「ネリマ、ネリマッ!」
「わかった、もういい。行け!」
4ケタの数字だけを記すと、仏頂面をして、僕らを追い立てた。
だだっ広い船倉の右端奥にカルディナを停めるよう、船員に誘導される。停めたが最後、3泊4日の間は船倉に戻って来ることはできないから、身の回りの荷物をすべて大型スーツケースとパソコンの入ったブリーフケースに押し込んだ。船室は、船の壁の部分内にある階段を上った3階にあると指示された。
重い荷物を担いで狭い階段を駆け上がる足取りが、なぜかふたりとも速い。小走りといってもいい。何かに急き立てられているわけでもないのに駆け足になっているのは、いろいろあったロシアともこれで離れられるという安堵感からだろうか。あるいは、ユーラシア大陸を横断する旅がなんとか終盤を迎えられた高揚感からだろうか。おそらくそのどちらでもあるのだが、長時間待たされたことからの解放感も大きい。
チェックインをするために食堂に行くと、チャールズ・ブロンソンに似たマネージャーが部屋の鍵と引き替えに僕らのパスポートを取り上げた。
「ディナー、エイト・オクロック。イミグレーション、ナイン・オクロック」
一方的に告げると、キッチンの奥に消えていった。
悪くない食事サービス。熱いサウナにシャワー
与えられた階下の部屋へ向かった。この船は、客船ではなく、トラックを運ぶことを主目的としているが、殺風景なところはなく、船内は清潔で明るい。食堂も華美なところはないが、広々としている。1970年代中頃の造形センスが伺える。
部屋はツインベッドルームだが、伏木港からウラジオストクまで乗ったRUS号の2段ベッドがふたつ置かれた部屋よりも広い。テーブルを挟んで、シングルベッドが進行方向に対して直角にひとつずつ設置され、残りのスペースにバスルームと荷物スペース、クローゼット、小机が用意されている。広く、使いやすい点では、RUS号のそれをはるかに凌いでいる。
「もう一週間待てば、同じ料金で、はるかにラクシュリーな旅ができるけど、どうする?」
サンクトペテルブルグに着いた日に予約確認に出向いたバルティックラインズのオフィスで質されたが、僕らは一週間も待てなかった。トラック輸送船と間いて、ある程度の覚悟はしていたが、ちょっと拍子抜けした。これはこれで上々じゃないか。
初日の晩ご飯は、前菜に生ハムとポテトサラダ、メインディッシュがウインナーシュニッツエル。ビーフカツレツだ。味も悪くない。別料金のベックス・ビールの小瓶を2本ずつ飲む。
他のテーブルには、トラックの運転手が4人。ロシア人らしい3人は仲間か顔見知りのようで、和やかに談笑しながら食べている。もう一人の、ちょっといい男風のドイツ人はひとりだ。
食事が終わると、イミグレーションだ。伏木港を出港した時のように、男性ふたりと女性ひとり組みの税関職員がやってきて、食堂奥のサロンのテーブルの上に各種の書類やスタンプのセットなどを広げて準備している。
乗客は、ソファに腰掛けて、遠巻きに税関職員の作業を眺めているだけで、特に何かを強いられるわけでもない。簡単にイミグレーション作業が終わったあと、ブロンソンがウイスキーかブランデーを数本、紙袋に入れてソッと渡すのを見た。ワイロなのかな。
もうひとつRUS号よりも優れているところが、トランスフィンランディア号にはあった。立派なサウナ風呂が設えられているのである。二十畳以上はありそうなくらい広く、立派なサウナだ。熱量も十分以上で申し分ない。シャワーのお湯もスイッチを捻った瞬間に熱湯がほとばしる。ロシアに上陸してから、こんなに勢いの良いシャワーを浴びたのは初めてだ。やっぱり、エンジンという強力な熱源を持っている船だけのことはある。
サウナから上がったら、緊張が一気に解けて眠くなった。食堂奥のサロンで4人のトラックドライバーたちはビデオで映画を観ているが、僕らは床に就くことにした。