お客様を想いながら、“一生かけて学び続ける”
──農口さまにとって、日本酒づくりのこだわりとは何でしょうか?「日本酒の神様」と呼ばれる理由についてもお聞かせください。
「私は、神様と言われることが好きではありません。日本酒造りは、まだまだわからないことばかりです。毎年お米が同じであれば「日本酒造りは、解った」と言ってると思います。しかし、毎年毎年気候に左右されてできの違うお米が入ってきます。そのお米を例年と同じ質の日本酒に仕上げないといけない。今でも不安で寝られない事があります。一生かけても解ったという事はないと思います。一生かけて学び続けようと思っています。“──お客様に喜ばれるお酒を造りたい。”と思って、必死になっているんです。
私は無学なんです。戦後、旧制中学校一期生です。民主主義とは何か、教えている先生も分かっていないような時代でした。学校では薄いパンフレットをもらっただけで、畑を耕したり、そんな学校生活でした。16歳で、同じく杜氏だった父親の勧めで、日本酒の酒蔵で働き始めました。米を扱っている酒蔵なら食うに困らないだろう、という考えでした。自分で選んで進んだ道ではないんです。今思えば饅頭屋に勤めたら良かったと思いますよ。お酒が飲めないのに酒造りの道に進んだわけですから。
数歳年下の従姉妹は進学して役所に勤めました。置いていかれた気持ちになったのを覚えています。でもそのあと、自分はこの道を受け入れ「この道で一番になってやろう」と奮起しましたよ。辛いこともありましたが、平気でした。静岡県と三重県の酒蔵で10年間、酒造りの基礎を必死で学びました。
そして異例の若さ、27歳で杜氏として石川県の菊姫という酒蔵に呼ばれました。社長が素晴らしい人で、彼のためなら“完全燃焼してやるぞ”と思えるような人でした。
最初の年です。東海で学んだお酒を造ったんです。白衣を着た先生たちは「石川県にはない、綺麗なお酒を造ったなぁ」とい褒めてくれました。ところが、その年の秋、私の造ったお酒を飲んだお客様から大クレームを浴びました。「こんな薄い酒飲めたもんじゃない」「水で薄めたのではないか」と、その当時は米不足で造れば造るだけ売れる時代だったので、売れたのは売れたのですが、この時に「自分の思いで酒を造ったんじゃダメなんだ」と思い知りました。
当時の我々のお客様は木こりでした。汗水流して山仕事をして働いて、夕方に晩酌を飲むわけです。そんな人たちにとって、日本酒は貴重な栄養源だった。みんな味わい深い濃いお酒を求めていたんです。この経験以来、“お客様のための日本酒を造らなければならない”と必死で勉強しました。山廃造りを学んだのも濃い味を求めるお客様のためです。今では私の影響か、石川県と言えば山廃という感じになりました。」
『飲めば飲むほど通る酒』を目標に海外にも発信していく
──「純米 無濾過生原酒 五百万石 2018」、「農口尚彦研究所 山廃 愛山 2018」について、飲み口や特徴、製造に到るまで苦労した点、どんなシーンに合うか、などお聞かせください。
「私は造る専門で、うまく表現できません。ただ、「純米酒」は絹のような柔らかでしなやかな口当たりが特徴で、「山廃愛山」は最も果実味が豊かだとお客様に教えてもらいました。今ではお客様の意見を聞きながら改善を行なっています。」
──今後、目標にしていることや日本酒を通して伝えたいことをお聞かせください。
「時代によって目指す味わいも変わります。私は昭和24年から日本酒市場を見てきていますから。市場ニーズは大きく変化してきました。甘いお酒が流行った時期もありましたし、端麗で水のような薄いお酒が好まれる時代があったかと思うとその反動で、旨味のあるお酒が好まれたり…
今は『飲めば飲むほど通る酒』を目標に酒造りに打ち込んでいます。お米が原材料なわけですから、農家さんが精魂込めて作ったお米の味わいをしっかりと引き出しながら、喉を通る時にはすっきりとしてベタベタ残らないお酒。気づいたらもう一杯と、手が伸びるようなお酒を目指しています。馴染みの飲食店さんには、私のお酒を扱ったら料理が出なくて酒ばっかり。料理が出ないと儲からないと文句を言われたことがありますよ。
ライバルといえば、昔は隣の酒蔵がライバルだった。でも今は日本酒だけと競っている時代ではありません。海外から洋酒もたくさん入ってきて、ワイン、ビール、ウイスキーなどとも競う時代にです。11月にはヨーロッパから飛行機満載のワインを積んで小松空港に飛行機が降りて、それを北陸三県で分けてしまうわけですからね。
今はこれだけ外国の方々が日本に来られています。「日本食が美味しかった、日本酒も美味しかった」と自国へ帰っていき、自分たちの国でも日本酒を試してみよう、という人が増えているようです。
我々のテイスティングルームにこられるお客様も、全体の1割は外国の方です。これからは外国の方の舌にあったお酒を造ることもこれからの挑戦ですね。」