閉塞的な階級社会のインドで、ラッパーとしての成功を夢見る青年の挑戦を描いた、実話に基づく作品。
エミネムの半生を描いた「8Mile」を彷彿させるような、熱いビートが迸る一本だ。

最下層の暮らしを抜け出してラッパーを夢見るインド青年の話

本作の主人公ムルドは、ムンバイに住む卒業間近の大学生。ムスリムの彼は、階級制度による社会格差が色濃く残る中で、家族と共にスラム街での貧しい生活を強いられていた。富裕家族のお抱え運転手として働く父親からは使用人の子供は使用人、身分不相応夢を見るなと釘を刺され、比較的裕福な家庭に育つ医学生の恋人とのひと目を忍ぶ交際に耐えねばならない。そんな彼が憂さを晴らせるのは、大好きなラップを聴き、ノートに自ら作った詞(リリック)を書き殴るときだけだった。

そんなムルドだったが、あるとき大学で 巧みにラップを歌いこなす若者MCシェール(ライオンという意味)と知り合ったことで、自らラッパーとしてパフォーマンスを行う道が拓かれる。ムルドは、新進ラッパー “ガリーボーイ(ガリー=Gullyはヒンディー語でストリートの意味)”として活動を開始。そしてそれは、閉塞的なインドの階級社会に喘ぐムルドをして、決められたレールを外れて自らの運命を大きく切り開く大きなチャレンジとなるのだった。

画像: 『ガリーボーイ』予告編 youtu.be

『ガリーボーイ』予告編

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歌い踊るシーンが満載のインド映画の本流を、違和感なくグローバル化

本作は、実在するインドの人気ラッパー Naezyをモデルに、米国の人気ラッパーNASがプロデュースした作品とのこと。

インド映画といえば、基本的にミュージカル仕立てというか、歌とダンスに溢れていて、登場人物が周囲を巻き込んで突然歌い踊り出し、そのまま数分はそのシーンが続く、独特のテイストであることが多いのだが、本作では、MV(ミュージックビデオ)の製作をしている、という建付で、その辺りの違和感が上手に隠されている。
というか、インド映画と音楽アーティストを主役とした作品はそもそも相性がいい、ということが言えるのだろう。音楽をメインテーマにしていれば、作中至るところで(脈絡なく?)歌い踊るシーンがあっても、観客を納得させることは案外容易くなるからだ。

そもそも、所属する階級が明確なインドの格差社会、そしてマイノリティであるイスラム教徒が住むスラム街に生きる若者の鬱屈、という、たいていの日本人には理解が及ばないであろう 暗い情念の捌け口として、ヒップホップが選ばれているその様子は、米国の貧困層に属する黒人たちの苦しみにかなり共通するところがあると思う。

人種的には変わらないのに存在する差別の深い断層

「8Mile」でエミネムが演じたジミー(当然白人)は、近隣の黒人たちと同じように非常に貧しい生活を強いられ、近隣の黒人たちと同じようにスラムからの脱出を夢見ていたものの、肌の色が黒くない、つまり黒人ではないという理由からヒップホップを極める資格がないというレッテルを、自他ともに貼ってしまいがちだった。
(その意識がラッパーとしての成長を阻む見えない天井となり、自らを縛る呪縛になっていた)

本作の主人公ムルドは、黒人ではないものの褐色の肌を持ち、インド社会のマジョリティであるヒンズー教徒ではない(彼はイスラム教徒の設定)。
ムルドたちにとって、社会全体に色濃く残る“カースト”的な意識による差別は生まれながらのものであるから、それらの蔑視や スラム街での貧乏暮らしを抜け出すことは容易ではない。自分ではどうしようもない、呪縛に縛られているのだ。
(アメリカに住む黒人たちの中に、自分たちは黒人だから差別されても仕方ないと自虐的な諦めを抱いていた者がいたというのも、同じ呪縛に囚われていたからだ)
だから、そんな社会差別との闘争の武器、もしくは ガス抜きアイテムとしてヒップホップが流行するのは至極当然のように思えるのだ。(さらにいうと、本作では、インドにおける女性の地位の低さに関しても問題提議している。ムルドの恋人は比較的裕福な家庭に育ち、医者を目指せる高い教育を受けさせてもらっているが、行動の自由を著しく制限されているうえ、意にそぐわない結婚を強要されている。ムルドの母親は、専制的に振る舞う夫の横暴に従い、若い愛人を家に連れ込まれても耐え忍ぶことを強制されている。男尊女卑という、過去から続く呪縛に囚われているのである。

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