元カノに買ったはずのマシンだったが、これからは俺が乗る。男の胸中には去っていった女への未練は微塵もなく、ただSRに火を入れるその瞬間に向けて作業を進めていた。
オートバイ2021年5月号別冊付録(第87巻第8号)「the Spare High」(東本昌平先生作)より
©東本昌平先生・モーターマガジン社 / デジタル編集:楠雅彦@dino.network編集部
嗚呼、ヤマハSR
オートバイらしいオートバイ。それがSRを表すのにいちばんふさわしい気がする。
ビッグシングルならではの豊かなトルク。低中回転域での力強い鼓動感は、これこそがバイクだ、とライダーをその気にさせる。
エンジンは空冷・4ストローク・SOHC・2バルブ・単気筒。キャブがインジェクションに変わったのは時代というやつだが、その乗り味は変わらない。
男はガレージの中で仕上がっていくSRにまたがるその瞬間を思いながらも、焦らず淡々と作業を続けていた。
私のバイク?と女は言った
SRにはセルはない。昔ながらのキックスタートだけだ。
初心者にはちとつらいかもな。デコンプレバーのおかげで、昔とは比べものにならないくらい始動しやすくなってはいるが、キックスタートはそれなりにハードルが高い。男はそんなことを考えながらキックペダルを踏み込み、エンジンをかけた。
古い構造のままとはいえ、そこは今どきのバイクだ。暖機が必要なのかは意見が分かれるところだろうが、男は昔ながらの儀式にこだわって、SRのエンジンが暖まるのを待った。
その時だった。
ガレージにひとりの女が入ってきたのは。
女は入ってくるなり、低く唸るようにして鎮座するSRを見て「私のバイク?」と言った。
縒りを戻しにきた?女を振り切って桜吹雪の中へ
女は、男のかつてのパートナーだった。
しかし、不器用で不安定な男との生活に不安を感じたのか、銀行員の男に走ったのだった。
「もうオマエのバイクではない」男は冷たく女を突き放した。「アナタが買ってくれたバイクじゃない」と女は静かに言った。
女は縒りを戻すために来たのかも知れなかったが、男にはそんな女の打算がたまらなくいやだった。
俺はいま、SRに乗ってやりたい、ただそれだけなんだ。「昔のハナシだ」男はそういうとヘルメットを被った。
男の胸に去来するものとは
満開の桜の下を駆け抜けていくSR。
時代の流れに争い続けてきたその頑固な背中を見送りながら、女は硬い表情を崩さなかった。
せっかくこっちから水を向けてあげたのにィ・・・。女は走り去るSRと男を見送りながらつぶやいた。
チャンスに鈍感な男に将来性を感じないワ!
楠 雅彦|Masahiko Kusunoki
車と女性と映画が好きなフリーランサー。
Machu Picchu(マチュピチュ)に行くのが最近の夢(けっこうガチになってきている今日この頃)