ナポレオンの没落を決定づけたワーテルロー(英語読みでウォータールー)の戦いに因んで“ピータールー事件”と名付けられることになった民衆弾圧事件を、ノンフィクションのドキュメンタリーのような緻密さで描いた作品。
ストーリー: 史実に忠実な作り
本作は、事件がもたらす衝撃の大きさのわりには知名度が低い、とある歴史的事件“ピータールーの虐殺事件”に焦点を当てた作品だ。
時代背景は、ナポレオンが1815年のワーテルロー(ウォータールー)の戦いでの敗北によりヨーロッパ全体の戦争が終結し、平和と安定が戻ってきてはいたものの、経済的に破綻状態が続いていた1819年。
まともな職を持てない民衆たちは困窮に耐えながらも、政府や国家体制に対して強い不満を抱くようになっていた。
本作の舞台となるマンチェスターでは、市民には選挙権はなく、自分たちの要望を政治に反映してもらおうにもなかなか良い手段がない。政治集会を開いては威勢のいいシュプレヒコールを叫ぶことしか憂さを晴らす手立てがない状況だった。
そんなおり、マンチェスターの民主化リーダーたちは、民主化運動の騎手としてみなされていた著名な活動家ヘンリー・ハントを招いて、セント・ピーターズ広場で大々的な集会を開催することを思いつく。小規模な活動を断続的に続けていくことによってそれらが先鋭化し、暴動につながることを恐れた彼らは、大規模な集会によって政権にプレッシャーをかけることのほうが正しい方法であると考えたのだ。
体制側につけ込むキッカケを与えないように、徹底して平和的に計画された(石ころひとつでも持たないように、非武装が徹底され、あくまでも紳士的な振る舞いを貫き通すよう集会開催者たちは群衆の教育と指導に力を注いだ)集会は、あくまでも穏和な形で開催されるはずだった。
しかし、それでも数万人という市民の集結に恐怖と不安を感じた判事たちはパニックを起こし、騎兵隊などの武装兵士の介入を指示してしまうのだった。
娯楽性を放棄した作品?
本作は、誰が主人公なのかまったくわからない、というか、事件そのものを正確に描こうとしたばかりに、主人公や主要登場人物といったキャラクター作りを思い切って割愛してしまったかのような作品だ。
たいていの日本人にはほぼ馴染みのない政治事件を描いているが、その事件にドラマティックな脚色をすることなく、事件を起こす背景(経済困窮による民衆の不満や、それを感じとり不安を募らせていく体制側の人間たち 、もしくはその不満に鈍感な支配層の様子)を丁寧に描きつつ、最後に悲劇的な顛末へと流れ込んでいく様を、非常に淡々と作り込んでいる。
ある意味、ドキュメンタリーの感覚であり、事件が起きる必然性は理解できるし、現代に生きる我々からしたら、いつかは発生してしまうほかないと感じざるを得ない“衝突”であり“暴発”としかいいようのない悲劇だ。そこに過度なドラマは不要であり、むしろ皆が知っておくべきなのに知名度が乏しい歴史事件の真の姿を、正しく伝えたいという制作者側の意図や願いを感じるものだ。
ただ、本作は商業映画であり、そうであるからにはエンターテインメントでなければならないと僕は思う。
この事件はマンチェスターで起きたが、本来マンチェスターで起きるべくして起きた、という感じではない。また、ハントが演者の予定だったから事件が起きた、というわけでもない。さらに言えば、この事件がきっかけで一気に民主化が進んだ、ということでもない(進むキッカケにはなったのだろうが、この事件を契機に、というほどの転換性はない)。
英国で普通選挙制が実現するのは、この事件の100年後の1918年だ。
つまり、世界中でこの事件に対する知識があまりないのは、事件の大きさに反比例して、その反響が小さいからであり、淡々と史実を描かれても、観客がこの事件に対して深い興味や関心を抱くようにはならないのだ。もし本当に記憶に残すことを考えるのであれば、映画的に脚色することを考えたほうが良かったのではないか?
結果として、本作は、良い作品であり、丁寧かつ丹念にある地方で起きた悲劇的事件を描いている。同時に、本作は面白い映画ではない。
商業的作品として観客に提示する意図よりも、民主主義が普及される過程で起きた、一つの重大事件の存在を知らしめるという目的に沿った、記録映画的な作品である。
小川 浩 | hiro ogawa
株式会社リボルバー ファウンダー兼CEO。
マレーシア、シンガポール、香港など東南アジアを舞台に起業後、一貫して先進的なインターネットビジネスの開発を手がけ、現在に至る。
ヴィジョナリー として『アップルとグーグル』『Web2.0Book』『仕事で使える!Facebook超入門』『ソーシャルメディアマーケティング』『ソーシャルメディア維新』(オガワカズヒロ共著)など20冊を超える著書あり。